hitonotuma56
人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
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人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)五十六 「私も波太郎に」
「次の船で行きましょうか。」
と云っても、真逆(まさか)行かれる者でも無い、又遣(や)られる者でも無い。母御は出来る丈け留めて、先ず此の場だけは済んだ。
けれど何時まで済んで居る者では無い。日を経るに従って槙子の
胸に、丈夫が再び帰って来ない積りでは無いか。体よく自分を振り捨てたのでは無いかとの疑いが募って来る。
そう疑って見る為(せい)か、此の後丈夫から来る手紙が、悉く同じ調子で同じ意味を含んで居る様に見えた。文句の表は当り前の、夫から妻への手紙で有るけれど、文句以外に何だか一物がある。
取り分け此の疑いを深くしたのは、丈夫が立って四月目に、槙子は丈夫の長男を産み落とし、母御と相談の上で、名を貞夫と附けて、その旨を丈夫へ知らせて遣ったのに、丈夫からの返事が何だか物足りない書き方であった。
本来ならば初めての息子だから、幾等手紙の文句を長くしても、歓びが言い尽くせない程で有るべきなのに、その文句が非常に短くて、大事に育てて呉れとの頼みも無ければ、肥立ちは何うか詳しく知らせよと言付けも無く、或いは早く帰って顔を見度いとか、こう云う譯で当分帰られないから、取り敢えず写真でも送れとか、何うしても無くては成らない文句が、一つも無い。真に此の一事が深く深く槙子の感触害した。
是からと云う者は、槙子は唯だ鬱(ふさ)ぐ一方である。愈々(いよいよ)丈夫が自分を振り捨てる積りに違い無いと思い込み、母御に向かっても自然と様子に違う所がが出来た。今までは丈夫の事が気に掛かる度に、母御に向かい、自分で自分の心配を打ち明けては母御の思惑を問い、そうして母御に慰められるのを非常に嬉しく思う体で有ったが、此の後はその様な事を問わない。
心配が有れば唯独りで塞ぎ込み、時には部屋へ籠ったままで、容易に出て来ない事も有る。部屋の中で一人泣いて居るのだ。
こう成ると母御の方でも、何だか気まずい所が出来る。気まずいに附けては又一種の疑いが起こらないでも無い。
何だって槙子はアノ様に深く、丈夫を疑う事に成ったのだろう。初めて丈夫の手紙を見たその時から、既に丈夫が自分んを捨てる気では無いかと、疑い始めた様で有った。さては自分の身に、何か捨てられはしないかと、日頃気遣って居る様な弱味が、有るのでは有るまいか。
こう思い初めて見ると、思い当たる事が無いでも無い。若しや槙子は丈夫と婚礼する前に、実は前の夫波太郎が、まだ生きて居ると知って居たのでは有るまいか。イヤまさかそうと知って、次の夫を持つ様な、そんな女では無いけれど、或いはまだ波太郎が死なずに居るかも知れないと云う位の微(かす)かな疑いは抱いて居たかも知れない。
それだから丈夫の出立の聊(いささ)か異様なのを見て、世に云う疵持つ足で、早くもその邊へ気を廻したのでは有るまいか。婚礼前にも何だか槙子の様子が、深い秘密を包んで居る様に思われ、それとは無しに問い試みた事も有ったが、その時はそうと気が附かなかったけれど、何うもそうで有ったらしい。
若しや他日波太郎が現れて来はしないかとの懸念が、絶えず心に障(さわ)って居たから、それで自然と素振りにまで合点の行かない所が出来て居たのだ。
双方の疑いが亢じては、世間普通の嫁姑の様に、果ては大なる衝突を引き起こすに決まって居る。流石に母御は思慮が深い、此の様な事では成らないと、或時翻然と思い直して、ロンドンに居る道子の許へ手紙を出した。道子ならば久しく槙子を引き取って妹の様にし、自分の家から丈夫に嫁入らせた程だから、又此身の心配を察して、槙子の心をも紛らわせて呉れるだろうと、此様に思ったのだ。
手紙には数日逗留に来て呉れとの旨を認めて遣ったのだが、道子の方でも近々お尋ねする積りで有ったとの返事を寄越して、自分の到着する汽車の時間まで知らせて来た。
その時間に母御は停車場まで出迎え、着くが否や共々に馬車に乗ったが、何しろ此の道子には、秘密の幾分を打ち明けて置かなければ成らないと思い、先ず此方から問うた。
「貴女の妹鈴子さんの許へは、定めし印度に居る私共の次男アノ次男から時々便りが有るのでしょうがーーー。」
道子「ハイ先日も丈夫さんが着いて以来の事など、細々と認めたお手紙を下されました。」
母御「所が、私の方には色々都合が有りまして、槙子へは次男が病気でそれ故丈夫が印度へ行った事の様に云って有りますから、何うか貴女も槙子へ向かってはそのお積りで。」
道子は充分の同情を持って、
「イヤ其の邊の御事情は充分お察し申して居ます。それだから私も先日から貴女のお屋敷へ伺おうと思って居たのです。誠に飛んだ事に成りましたねえ。」
誰にも知らさない一家の秘密を、早やこうまで知られて居て、悔やみの様に云われては、却って又気遣わしい。
母御「ですが貴女は何うして私し共の事情を。」
道子「イイエ夫人、私も波太郎に逢いましたよ。」
さては未だ波太郎が、此の国に居るのかと母御は忽(たちま)ち色を変えた。
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