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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma58

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十八 「最と姑息な手段」

 真に槙子の身が何の様に治まるだろう。母御も道子も思案が出ない。何がどうあれ、外の事柄や話を以て槙子の心を紛らせて置く外は無いと相談を決めた。非常に姑息《一時しのぎ》な手段では有るけれど、是より外に仕方が無いのだ。

 やがて伴野荘へ着いて、道子は槙子の部屋へ通った。槙子は色も青く、そうして力無さそうに唯だ鬱(ふさ)いで居る。道子は故(わざ)と気も軽く、
 「何をその様に鬱ぐのです。貴女ほど結構な身分は有りませんのに。」

 槙子は弱く嘲笑う様な調子で、
 「ハイ、本当に結構な身分です。」
と、云う声と共に涙が両の頬を伝って降(くだ)った。
 道子「アレ、貴女は泣くのですか。私が久し振りに尋ねて来ましたのに。」

 槙子は全くの涙声と為った。
 「ハイ、姉さん、私は丈夫が印度から帰って来る迄、此の通り泣いて居るのですよ。」
 是ほど涙脆い女では無かった。随分泣かなければ成らない場合にも逢ったけれど、笑顔のままで辛抱して、男優りと云われた事も有る。

 此の様を見て道子もさては母御が疑った通り、先の天波太郎が、まだ生きて居る事を薄々疑って居る為に、早くも丈夫に振り捨てられた事と感じて居るのかも知らないと、此の様な疑いが、疑うまいと思っても兆して来る。

 そうは云え、慰めに来た者が却(かえ)って悲しみに沈ませては成らないから、気を取り直して話を他の事に転じようとしたけれど、槙子の心が仲々外の事へは移らない。
 槙子「分かって居ますよ。分かって居ますよ。何が私の身に、悪い所が有って、それを許す事が出来ないから、丈夫は立去ってしまったのです。」

 道子「何でその様な事が有りますものか。夫婦の間ですもの、悪い所が有れば遠慮無く叱りますワ。」
 槙子「イイエ、それが結婚の前に、私から願った約束ですから。悪い所が有っても、叱りなどは成らないのです。もしも他日私の身に許す事の出来ない様な不都合な事が有れば、何うかお叱りに成さらずに、無言(だま)って私の傍へ立ち寄らない様にして下さい。

 貴方が立去ってお帰り成さらなければ、さては此の身に許されない落ち度の有る者と悟りますからと。ハイ私は、此の婚礼の前に自分から願って置きました。アノ様な正直な方ですから、私しの願った通りに、何にも云わずに去っておしまい成さったのです。是で悟れと云うお仕向けです。」

 母御には一語もこの様な事は云わないけれど、道子には、姉同様に思う丈に、心の底まで打ち明けるのだ。その推量が当たっては居ないけれど、満更に見当を失っても居ないので、道子は益々返事がし難くなった。けれど打ち消す外は無い。

 「何でその様な事が有りますものか。丈夫さんは次男さんの病気の為に印度へ立ったのでは有りませんか。」
 槙子「その様には聞きましたけれど、私しへ暇を告げずに、家へ立ち寄りもせずにお立ちでした。それに次男さんの病気とやらも、もう直ったろうと思いますのに、未だお帰りになりません。手紙は来ても唯の一言も、何時頃帰るとさえ書いて無いのです。是が何よりの証拠です。

 私はアノ時にそう申して置きました。貴方が無言(だま)って立ち去ってお帰り成さらなければ、その時には私も最早やお詫びの叶わない者と悟り、自分の身の始末を致しますからと。ハイ今は全くそう悟れ、そう始末せよとのお仕向けです。全くそうに違い有りません。」

 道子「だって貴女の身に、何もその様に仕向けられる落ち度が無いでは有りませんか。」
 槙子「イイエ、無いと許かりも云われません。それにしても、ねえ姉さん、此の様にお仕向成さる前に、此の事は何(ど)うだとか何うして此の様な事が有るかとか、一言問うて下されば好いでは有りませんか。お問い成さって、私の返事がお気に召さなければ、その上で此の様に成さるが好いでしょう。

 何にも問わず何にも云わさずに、直ぐに此の様に成さるとは、少し甚(ひど)過ぎるかと思います。自分の落ち度は落ち度でも、私には又私丈の言い開きが有るかも知れません。切めて阿母さんからでも一言、問うて下さる様に成さって置いて、その上ならば又断念(あきら)め様も有りましょうのに、是では取り付く所も無いのです。

 阿母さんからは、何も和女を振り捨てたのでは無いと仰有(おっしゃ)り、そうして御自分からは、手紙もお寄越しなさるのに、唯の一言でも箇条を知らせて下さらないのですもの。私の願ったのは、こうまで意地悪して下さいという事では有りませんでした。」

 道子「ソレ御覧なさい。箇条を示さないのが、そうで無い証拠では有りませんか。全く丈夫さんは弟の為に印度へ行き、未だ帰る事が出来ないのですよ。」
 立派には言い聞かせるけれど、実は此の言葉には幾分の偽りを含んで居ると思うと、慰める方も実に辛い。

 槙子「私は此の次のお手紙を待って、その中に未だ私の疑いが解ける丈の言葉が無ければ、貞夫を抱いて印度まで行き、そうして直々に伺って参ります。此の様な頼り無い状態で何時までも待って居る事は出来ません。」
と言い切る中には、悲しみの外に恨みも立腹も籠って居る。

 恨むのも腹立てるのも道理ではある。道子も全く慰める事が出来なかったけれど、漸く話を他に移して、先ず此の場だけは治めたが、何時まで治めて居る事が出来よう。此の次に丈夫から来た手紙は、イヤ是より三月ほど経て後だけれど、全く槙子の運命を定めた。

 その文句は、次男の方が帰国する。丈夫は次男の留守の事務を与かって当分印度に留まるとの事である。
 果たして次男は病気で無い。たとえ病気で有ったにしても、今は帰国の出来る丈に全快したのだ。全快すれば見舞いに行ったその人が帰るべきなのに、却(かえ)ってその人が留守を引き受け、踏み留まるとは道理に於いて、無い事である。

 槙子は此の手紙を読み終わって、身を震わせて泣き伏した。



次(本篇)五十九

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