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hitonotuma59

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十九 「絶壁から落ちる人」

 次男は帰るが丈夫は帰らない。是が丈夫から来た手紙の文句である。槙子に取って是ほど情けない事は無い。
 最早や丈夫の意は明白である。此の身を妻として此の身と共に棲む事が出来ないのだ。愈々(いよいよ)以て此の身に自分を処分せよと促すのだ。

 こう思うと同時に槙子の胸には、殆ど目も眩(くら)むほどの悔しさが込上げた。アア此の身には何の罪ある。罪も何も知らさずに、此の様に振り捨てられるとは、甘んじて従う事の出来ない仕向け方である。
 悔しさに続いては又悲しさが沸き起こった。此の世に唯一人の人と頼む丈夫に分かれて、此の後を何う送られよう。

 今まで凡そ八ケ月ほど別れて居るその間さえ、我が身の半分、否全部をまで失った心地がして、夜も日も淋しさに心細さに耐えられないのに、何時まで待っても、愈々(いよいよ)此の身の傍へは、帰って来ない人と定まっては、此の身にばかり月日の照らない様な者である。況(ま)してや今は、子まで成した仲であるのに、是れを何して安閑と耐(こら)えて居られよう。

 思えば思うほど丈夫の仕向け方の、情無(つれな)さと、自分の悲しさ心細さが、犇々(ひしひ)しと身に徹(こた)える。是までと云えども萬一(もし)やこの様な事では無いかと、略(ほぼ)自分の決心を定め、既に道子に向かっても母御に向かっても、印度まで丈夫に逢いに行くと云った程なので、今は愈々逢いに行く時が来た。

 子を抱いて舟に乗り、丁度豪州から此の国へ来た様にして、印度へ行けば、遠くても行かれない事は無い。印度へ行って逢った上で、此の身の悪い所は幾重にも詫び、手を引き合って睦まじく帰って来よう。是が家の為、身の為め、子の為であるのだろう。意地は張らずに、充分此の身を折って掛からなければ成らないと、殊勝にも思い定めた。

 それにしては第一に、母御に計からなければ成らないのだが、母御は十日ほど以前から、ブルードの隠居所へ行き、もう日も無く帰って来る頃とは思うけれど、帰るのを待っては居られない。心が迫(せ)いて一日の猶予も仕難い場合である。直ぐにブルードへ尋ねて行こうと、身支度も匇々(そこそこ)に家を出た。

 実は母御も、日に日に槙子の鬱(ふさ)ぎ込む様を見、幾度も寧(いっ)そ此の様な事なら、誠を明かそうかと思ったけれど、明かせば今より又一層、イヤ全く槙子の身を破滅させる事になるのだからと、途方に暮れて道子を呼びなどもして見たけれど、別にその甲斐が見えないから、或いは此の身が傍に居なければ、又何とか気の軽くなる事も有ろうかと、暫しブルードへ引っ込んだのである。

 そうして今日も丁度、槙子の許へ来たのと同じ意味の手紙を、丈夫から受け取った為、さては槙子がきっと又、驚き悲しむ事だろうと、一人心を痛めて居た。その処へ槙子が来た。

 槙子は殆ど見脈(けんまく)が変わって居る。来る道々も独り考えるに従って、悲しさも悲しさだが、兎に角、悔しさと腹立たしさとが先に立つ。何で此の身は此の様に仕向けられる。如何に落ち度が有るからと言って、余りな仕方だと幾度も同じ恨みを、胸の中で繰り返して呟いた。だから母御の前に出ても、その様子が現れるのだ。

 「阿母(おっか)さん、今朝印度から手紙を受け取りましたが、近々次男さんが御帰国の由です。けれど丈夫さんは御帰り成さらないと有りますが。」
 母御は聞かないうちから、大抵は槙子の言う事を察し、早や途方に暮れつつ、

 「ハイここへも先刻その事を認めた手紙が着きました。」
 槙子「是でもう疑う所は有りません。丈夫さんは全く帰国成さらないお積りです。少なくとも私の傍へは御帰り無い事に決まりました。」
 母御はそうでは無いと言い消す力が無い。何やら言葉の様な者が口の中に蟠(わだかま)ったままである。槙子は日頃の落ち着いた様子は無い。次第に調子が甲走って、

 「貴女もきっと丈夫さんが、再び私の傍へ帰らない御決心と云う事を、以前から御存知で有ったのでしょうねえ。」
 何の用意もして居ない中に襲われて、母御は全く隠し切れない。隠しても無益だと思った。
 「ハイ、知って居たと云う程でも無いが。」

 けれど言葉はまだ曖昧である。
 槙子「分かりました。ですが阿母さん、何の仔細が有って丈夫さんは、その様に私を振り捨てる決心を成さったのでしょう。多分貴女へは、委細をお打ち明け成すった上だろうと思いますが。」

 初めに知らないと明らかに言い切らなかった為に、此の問にのみ知らないと答える譯には行かない。それからそれと、引き続いて打ち明けなければ成らない事に成り相である。母御は宛も、千仭(せんじん)の絶壁から落ちる人が、落ちる途中で初めて足を踏み外したのを悔やむ状態である。踏み外した後は、悔やんだとて仕方が無く、幾等厭でも落ち着く底までは、落ちて行かなければ成らないのだ。

 「それは実に、問うも辛し、問われるも辛い事柄です。」
 問わない方が好いだろうとの意を、やっと洩らした。



次(本篇)六十

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