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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六 「槙子と輪子」

 此の翌日は空も晴れた。丈夫は約束の通り十時に迎えに来て、槙子の一行をプルード行きの汽車に乗せた。
 車中で槙子を退屈させない用心に、丈夫はその日の新聞紙などを大分に買って持って居たが、是は無駄な用心で有った。汽車が目的の地に着く迄、二人は話に実が入って、新聞などを読む暇は無った。

 この様な中にも、兎角丈夫の合点の行かない事は此の女の素性である。学問は可成りに有ると見え、書籍などの事は何を話しても良く知って居る。そうして自然に備わって居る品格も、次第に高く見える許りだ。心も昨夜よりは大いに引き立った所がある。けれどまだ時々、異様に鬱(ふさ)ぎ込み、話しさえ上の空に見える場合の有るのは何故だろう。矢張り昨夜云った彼の悪事とやらが気に掛かって居るのでは無いだろうか。

 しかし何しろ此様に美しく、そうして品の好い女だから、博士の家へ着けば誰からも喜ばれるに違い無い。取り分け輪子などは、好い姉妹が又一人出来た様に思い、下へも置かない程にするだらうと丈夫が思うのは大違いだ。やがて停車場へ着くと輪子が迎えに来て居る。丈夫はその旨を槙子へ細語(ささや)いた上で、汽車から連れて降り、そうして輪子の前へ立って、
 「之れが豪州から来た貴女の義妹槙子さんです。」
と紹介した。

 槙子の美しい顔を見るや否や、輪子の顔は叢々(むらむら)と曇った。
 「良く入(いら)した」とも「お疲れでしょう。」
とも何とも云わない。唯だ槙子の方から挨拶の出るのを待って居る。
 三千里の波涛を越えて、遥々と頼って来た槙子に取っては、決して嬉しい仕向では無い。槙子は眼に恐れを帯びて、アタフタと輪子の顔を見た。そうして、

 「何分宜しくお願いします。」
とヤッと云った。輪子は非常な恩を着せる様に、一寸と手先を出して握礼させた。その身振りは宛(あたか)も奴隷に対する帝王の様である。そうして直ぐに丈夫に向かい、

 「ロンドンからここまで、何も貴方が付き添ってお出でには及ばないでは有りませんか。」
 丈夫は此の無愛想に、殆ど輪子を見下げる程の気に成った。
 「ハイ博士から托されましたから、無事に博士へお渡し申すまで付き添って居なければ成りません。」
 厳重な返事に、輪子は更に減らず口である。

 「では阿父(おとつ)さんが若し不在なら、留まり込んでもお待ち成さるのですね。」
 全く輪子は、槙子の美しさに、礼儀作法も忘れるほど立腹したのだ。是より博士の家まで馬車に乗ったが、槙子は赤ん坊を乳母から我が膝へ受け取り、唯だ俯向いてその顔を眺めて居る。定めし何の様な事を云って好いか分からない為め、こうして紛らせて居るのだろうか。

 その俯(うつ)向いた眼には涙が溜まって居るらしい。丈夫も不愉快である。輪子も不愉快である。凡そ卅分ほどの間、三人無言で博士の家には着いた。
 博士は門まで出て待って居る。そうして槙子が我が前に来るや、両手を広げて、
 「オオ娘か、良く無事に帰って来た。」
と云った。

 娘でも無いのを娘と言い、初めて来た者を帰って来たとは何たる親切な言葉であろう。槙子は全く耐える事が出来ない。博士の胸に顔を埋めて唯だ咽(むせ)ぶのみで、挨拶の声も出ない。博士は之を傷(いたわ)りつつ丈夫へ然るべく礼を述べ、更に、
 「サア一同が待って居るから」
と云い、そのまま槙子を連れて家に入った。確かに槙子の美しさと品の有る所とが、猶更に博士の心を柔らかにした様である。

 後で輪子は、丈夫の機嫌を取り直さなければ、或いは槙子に奪われる恐れが有ると思ったか、自分の顔に有る中の第一等の笑みを浮かべて、
 「本当に御苦労でしたよ。サア私の部屋でお茶を差し上げましょう。」
と誘った。今までならば此の笑顔を非常に嬉しく感じただろうが、今は猿の笑顔を見る程にも感じない。

 「イヤ少し用事も有りますから、そのうち又」
と云って我が家の方に去った。
 是れも槙子の為では無いだろうかとの疑いの念が無いでも無い。輪子は世に云うムシャクシャ腹で、家に入って見ると、早や父が槙子を風間夫人や一川二山両夫人などに引き合わせ終わった所である。

 博士「サア輪や、槙子を定めた室へ案内してお上げ。定めし疲れたで有ろうから、暫(しば)し休息しなければ。そうして其の上で、後ほどお茶でも入れる様に。」
と何時もに似ず良く気が附く。真に全くの誠心(まごころ)と見え、何時もの様に、
 「爾(そう)、爾、爾」
の声さえ出ない。輪子は不承不承に案内して二階へ行き、定めの部屋では無く、一番狭い四畳半ばかりに見える部屋へ槙子を入れ、
 「此の家は後から後からと厄介者がばかり来る家で、広い部屋は皆塞がって居ますから是で我慢して下さい。」
 刺で突く様な言葉である。

 槙子「ハイ結構です。何うか構い下さらない様に。」
 輪子「イヤ構わない譯には行きませんよ。お客様を大切にするのが私の役目ですから。ですが貴女が乳母まで連れて来ようとは思いませんでした。乳母を何の部屋へ入れて好いか。私は当惑して居るのです。」

 暗に此の狭い部屋に乳母と一緒に居よと云う謎である。槙子は悟りの早い気質で、
 「イエその心配には及びません。此の部屋へ同居致させます。乳母とは云う者の、云はば航海中丈の約束で、明日にも断って好いのですから。」

 輪子「断れば直ぐにその後へ、航海中だけでは無い本当の乳母を雇うのでしょう。」
 槙子「イエ雇わなくても、赤ん坊の始末は自分で出来ますから。」
 輪子「そうなさい。父はは人の厄介を幾等でも引き受けますけれど、搖銭樹(かねのなるき)を持って居る譯では無し、成る丈費用の掛からない様にして下さらなければ困ります。」

 槙子「ハイ、イイエ、博士から贈って下さったお金が、未だ沢山に残って居ますから、ここ一、二年は小使いも充分です。それに赤ん坊が一人で歩む事の出来る様に成れば、私も何とかして少しは貴女の御手助けに成り度いと思って居ます。」
 輪子「ナニ貴女の助けなどは請いませんよ。雇い女が沢山有りますから。」

 ああ云えばこう云う、実に刺だらけの口である。栗の毬(いが)でもこう迄は人を刺さない、此の様子では槙子の後々は察せられる。



次(本篇)七

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