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hitonotuma60

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十 「執念と云う者です」

 ここで母御が、何の容赦も会釈も無しに誠の事を打ち明けるのは何よりも容易な事だ。槙子に向かって唯一言、
 「実は和女(そなた)の前の夫波太郎が猶(まだ)生きて居ると云う事が分かったから、丈夫は和女(そなた)の夫で無い事に成ったのだ。」
と。

 こうさえ云えば総ての事が明白に成ってしまう。
 けれど此の誠が明かされないのだ。之を明かす事は槙子を殺す様な者だ。伴野一家をも滅ぼしてしまうのだ。丈夫には母、槙子には姑、そうして伴野一家の最年長者たる母御が、何で此様な思慮の無い事をせられよう。と云って誠を明かさなければ、益々槙子が丈夫を恨む許りである。

 何時何の様に治まりが附くのか見込みが附かない。アア言うも辛い、言わないのも辛い。真に進退両難である。母御が、
 「問うも辛し、問われるも辛し。」
と云ったのは、実に血を吐く思いであろう。言葉としては誰であっても、此の一語より外に吐く言葉が無い。

 此の一語で槙子は最早や、母御が丈夫の思惑を悉(ことごと)く知って居て、そうして此度の仕向け方をも賛成して居るのだと悟った。そう悟れば又恨みが深くなる。既に先程から調子が変わって居る言葉を、又一層急にして、

 「阿母(おっか)さん、私しの身の罪は、こうまで仕向けられるほど重いでしょうか。アノ慈悲深い丈夫さんが、許して下さる事が出来ない程でしょうか。私は是ほど厳しくお罰し成さるには及ぶまい、もう許して下さっても好さ相な者と思いますが。」

 さては槙子の方では、何か自分の身に罪が有ると思って居るのかも知れない。それは丈夫も母御も全く知らない所である。
 母御「和女(そなた)の云う事は、私しには何だか合点が行きません。許さないとか罰するとか、何も和女の身にその様な罪がーーー。」

 槙子「イイエ有ります。有ります。私は丈夫さんを欺いたのです。私の所為が詐欺とやらに等しいのです。それだから丈夫さんは、婚礼前の約束の通り、無言(だま)って私の傍を去り、何時までも帰えらずに、私へ自分で自分の身を処分せよと促して居らっしゃるのです。

 それは良く分かって居ますが、それにしても阿母(おっか)さん、今は子までも有る仲では有りませんか。どのように私が自分の身を処分する事が出来ましょう。否(いや)です。否です。私は此の様に振り捨てられるのは否です。

 幾等私に罪が有っても、余り罰が重過ぎます。丈夫さんの為され方は不親切です。イヤ意地悪です。此の様な方とは思いませんでした。意地悪を通り越して執念と云う者です。私への仇(あだ)、敵(かたき)か何ぞの様に仕向けて居らっしゃるのです。」

 激しい言葉では有るけれど、全く此の様に思うのが当然である。
それにしても槙子がその身の罪と云うのは、何の様な事を指すのだろう。丈夫を欺いたと云い、自分の口から詐欺に等しいとまで云うことは、唯の間違いや過ちでは無いだろう。

 母御は余っぽど是を問おうと思い、その言葉が唇まで出たけれど、イヤイヤ忽ち思い直した。その「罪」を憎むが為に、丈夫が此の様な仕向けをするのだと、槙子が思い詰めて居る間は、本当の事を打ち明けずに居られる譯である。打ち明けられない本当の事を問詰められるよりは、その様に思い詰めさせて置くのが、遥かに優(ま)しである。槙子に対してもその方が親切である。

 母御は唯だ言葉少なに、
 「和女(そなた)はそう厳しく丈夫の仕方を判断しない方が好い。丈夫がそれほど執念深い男で無い事は、和女(そなた)が良く知って居る筈では無いか。」

 槙子「ハイ、今までは知って居る積りでした。けれど実際が此の通り酷過ぎますから、それでそう申すのです。けれど阿母(おっか)さん、今日は此の様な恨みがましい事を云う為に来たのでは有りません。何うか丈夫さんを印度から呼び返し度いと思いますから、貴女のお力を借りに参ったのです。

 ですが、貴女の御言葉では、貴女も丈夫さんの成され方を賛成の御様子で、私の望みも届きませんから、私は直々是から印度へ参ります。ハイ児を連れて印度へ参り、自分の悪い所は幾重にもお詫びして、何うか私の罪を許して戴き、そうして共々に帰ってきます。」

 実に貞女の心掛けである。貞女の心掛けがそのまま言葉と行いの上に現れるのだ。此の様な女が何故、波太郎の妻だろう。何故我が息子丈夫の妻で無いのだろう。何故波太郎が生きて居ただろうと、母御は恨めしい心地もする。

 とは云え、真実は印度まで行かれては大変である。丈夫が一層苦境に陥るのみでは無く、今までさえも蓋(ふた)を仕兼ねて居た一家の恥辱が、愈々(いよいよ)破裂して、治まりの附かない事になる。母御は慌(あわ)てて、
 「イイエ、和女(そなた)は、その様な事をしてはいけません。印度へ行っては成りません。」

 槙子には此の言葉が又更に合点が行かない。殆ど此の身の為すべき事を、無理に妨げる様にも聞こえる。
 「でも阿母(おっか)さん、私は丈夫の妻です。彼の長子の母親です。今の様な仕向けを受けて居て、何時までもそれを耐(こら)えて居る事は出来ません。」

 こう迄云うのを推し止どめる道は無い。それでも推し止どめなければ成らない。
 母御「イイエいけません。決して印度へ行っては成りません。」
 余まりに分からない言い方である。それでは全く此の身を押し附けて置いて、無理往生に意地悪な仕向けに服させるのだ。こう思うと共に、槙子の顔には怒りの色が現れた。

 「では阿母(おっか)さん、私しが行ったとしても、丈夫さんが私の罪を許さないと仰るのですか。私の罪は幾等詫びても、許す事の出来ない程の重い罪だと、貴女を始め皆で仰るのですか。」
 愈々(いよいよ)事の破裂より外、一つの活路も無い場合には押し寄せた。



次(本篇)六十一


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