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hitonotuma63

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十三 「諾(うん)と云う響き」

 全体、医者と云うのは神聖な職業だ。人の命を預かるのだから東洋では之を仁術と云い、医者の先祖を聖人に列して有る相だ。取り分けその診察時間は、神聖な職業を実行する時間で、診察局はその実行の場所で有るから、医者が診察所に控えて居る間は、一種の神様で有る。私欲も人情も何にも顧みられない。唯だ人を助けよう。病の元を見破ろうと云う、慈悲の一心で無くては成らない。

 世間に此の様な医者が澤(たん)と有るか無いかは知らないけれど、兎に角之が医者の道で有るのだから、患者たる者も、医者の診察所に入る以上は、神の前に出た心で無くては成らない。恭謙(うやうや)しき心を以て、誠を何よりも専一とし、嘘を云わず隠しもせず、そうして、此の様にせよと言い渡された養生法や、是を飲めと指図せられた薬は、辛かろうが苦かろうが、命に懸けて服用する決心で無くては成らない。是れは云う迄も無い所で有る。

 此の神聖な診察局へ、伴野次男の様に、病気でも無いのに入って行き、幼馴染みの女医者を、驚かそうと云うのは随分悪い洒落だ。意地が悪いと云っても好い。唯だ次男は女医者鈴子の普段の気質を知って居る為に、此の風変わりな仕方が、却(かえ)って好いだろうと思って居る。外の人が診察時間を騒がせるのは兎に角、自分が騒がせるのは、或いは歓迎せられるだろうと思って居る。

 勿論鈴子は、言わば未だ妙齢で、しかも十人並みに優った美人で、通例ならば芝居や交際に余念も無いに違いない筈なのに、それが脇目も振らずに医学を修行して、早やM.D.《医学士》の学位まで取って居るのだから、余ほど世の常とは違った所が有るに違い無い。

 違った女には違った手段を以て接近しなければと、次男は思って居る。何でも聞く所では、非常に真面目だと云うから、先ずその真面目を打ち破った上で無ければ、心を縁談などの方向へ振り向ける事は出来ない。

 此の様に思って控室を出ると、非常に朴訥(ぼくとつ)《飾り気がなく無口なこと》な使用人の男が来て、診察室へまで案内した。次男は、幾等鈴子が真面目でも俺(おれ)ほど真面目な顔は出来ないだろうと云う程に、自分の顔を真面目にして、診察室へ歩み入ったが、鈴子は真っ黒な服を着け、広いテーブルを前に控え、診察の道具や墨筆及び帳簿などを置いて、端然《きちんとして居る事》として待って居る。

 年こそ若いが、顔こそ美しいが、如何にも尤もらしい女医者である。やがて次男の足音を聞くと共に顔を上げ、今度のは何の様な患者だろうと、次男の顔を見た。
 見れば驚かない譯には行かない。幼い頃からの友達で、分かれて後も手紙だけは折々遣り取りして居る、懐かしい人である。

 その人が帰るとも何とも知らせさえせずに、出し抜けに千里以外から帰って来て、出し抜けに診察所へ入って来たのだから、之を若し驚かなければ人間では無いのだ。取り分けて、女では無いのだ。

 鈴子の顔はパッと紅くなった。驚きの叫びを発し相に、その唇も動いた。けれど診察所で、私情を動かすのは禁物で有る。況(ま)して患者を案内した使用人も立って居るのに、医者と云う神聖な職業より外の言葉を発し、自分の職業を傷けて成る者か。

 之が若し、もっと世故に長けた老練な医者ならば、場合相応に多少は其所へ余裕(ゆとり)を附けて、然るべく挨拶もするけれど、実を云えば、未だそれほどは融通の利かない処女(おぼこ)である。

 それに相手が意中の人で有る丈に、猶更(なおさ)ら身体が剛ばった様な気がして、少しの駈け引きも随意に成らない。
 兎に角も此の辛い場合を紛らす為に、鈴子は直ぐに筆を取って帳面へ何か書き始め、赤らんだ顔を隠した。

 隠して居る中に必死の思いで、職業の上の勇気を呼び起こしたが、こうなると勇気の上に一種の意地も出る。先方(さき)が此の様にして此方を揶揄(からか)うなら、此方だってナニその手に乗る者かと、是は少し私情では有るけれど、実は此の意地の為に職業上の勇気が出たのだ。

 やがて二度目に顔を上げた時は、次男よりも更に真面目である。頬の辺に未だ少し紅の潮が引き切らない様も見えはするけれど、全く初対面の患者に接する様な調子で、イヤそれよりももっと冷淡な余所余所しい声で、

 「サア是れへお掛けなさい。」
と言ってテーブルの前へ腰を下ろさせた。そうして患者の訴える所を、一々帳面へ書き留める為に筆を取って、帳面を開いて、徐(おもむろ)に、

 「何の様な御病気です。」
と問うた。医者と患者との関係より、一歩も内へ踏み入らせない用心が、厳重である。
 次男は前から返事を考えてある。
 「ハイ、心に何か病が有ると見えまして、数年来、寝ても覚めても一つの顔が目の先に散々(ちらちら)致します。」

 覚悟した鈴子も、此の返事には殆ど敵しかねたか、又も首を垂れ、帳面へ忙しそうに何事をか書き始めたが、今度は金筆(ペン)に墨汁(インキ)を含ませる事を忘れたらしい。金筆の音が紙の面を引っ抓(か)く様に聞こえて居る。漸く又顔を上げて、

 「それは心の病いでは無く脳の病です。脳に異常が出来たのです。その外に何か兆候は有りませんか。」
 次男「ハイその外にまだ声も聞こえる様に思います。丁度その顔が目に附いて居る様に、その声も耳に着いて居るのです。」

 女医者「きっと神経に障(さわ)る様な恐ろしい声でしょうね。」
 次男「所が至って優しい声で、私の耳へは天女の口から出るのかと思われます。それにその顔も至って美しいのです。余り美しいから、それで目に附いて離れないのでしょうか。唯だ一つ困った事には、その声が私の望む言葉を発しないのです。幾等願っても諾(うん)と云う響きを発して呉れません。

 女医者は、鐡案(てんあん)《動かしがたい決定案》を降した。
 「アア貴方は発狂の恐れが有ります。」
と。
 実に何方(どちら)が勝つか分からない。



次(本篇)六十四


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