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hitonotuma69

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十九 「此身には、日は照らぬ」

 層一層と益々暗く成って行って、今は真の闇夜とも云うべき状況に落ち詰まったのは、丈夫と槙子との間である。何所を何う眺めても、ここがこう開けるだろうと云う見込みの附く所が無い。譬(たと)えて云えば、漫々たる海に徘徊(さまよ)う小舟が、火の気も磁石も失って、何所の灯台も見えないので、天を仰いでも星さえ見えない様な者である。真に此の末が何うなる事で有ろう。

 離縁、離縁、勿論離縁には決まってしまった。丈夫から離縁と云う手紙が春山伯の許へ来た。槙子も、もう宛(あたか)も離縁が済んだ後か何ぞの様に、人に逢っても丈夫の名さえも云わない。昔の、可愛いさは憎さと為って、殆ど敵の様にも思って居る。

 とは云え離縁とは余りな事柄だから、春山伯から丈夫へ、二度目の勧告状を遣った。丈夫は封も切らずに、そのまま付箋して返して来た。是が全くドン詰まりと云う者だ。丈夫の心は成る丈、酷く槙子から恨まれるのが好いと決して、一寸も動かないのだ。

 離婚の条件書は既に春山伯から、弁護士に托して起草させる事に成った。伯から改めて槙子に向かい、最早や此の世に丈夫と云う者が有った事を忘れよと言い渡した。
 「アノ様な邪慳とも薄情とも云い様の無い男に、少しでも未練を残して世の人の物笑いと為るな」
と云うのが伯の言葉で有った。

 「何で伯父さん、私が未練を残しますものか。もう是で綺麗に成ります。颯(さっ)ぱりしますよ。」
と云うのが、槙子の意地の強い返事であった。
 果たして綺麗に颯ぱりするだろうか。夫婦の仲違いが、離縁に落着するのは落着では無い。破壊である。沖に徘徊(さまよ)ふ船ならば砕けて沈溺する様な者だ。

 成るほど見た所では、颯ぱりもするだろう。海の表面に何物も残らない事には成るのだ。その代わりに何時までも尽きない、長い長い恨みが残る。何も彼も恨みに形を変えて終わるのだ。決して綺麗では無い。颯(さ)っぱりでは無い。

 だから槙子も春山伯が最後の言葉を残して去った後では、日も夜も、只だ泣き暮らし、泣き明かして居た。アノ様に親切で有った丈夫が、何で此の様に成ったのだろう。幾等私の身の過ちを怒るにしても、余りな事で合点が行かないのが、実は断念(あきら)めが附かないのだ。

 「もう私の身の上には、日は照らない。日は照らない。」
真に暗黒の底に泣き沈んだ。
 丁度此の時である。輪子が波太郎が未だ生きて居ると云う、秘密の根本を聞き出したのは。実に槙子に取っては、是が泣く顔に蜂と云う者であろう。

 勿論輪子は此の秘密を以て、槙子に大打撃を加える積りである。唯だ槙子が普通に離縁と為った丈では飽き足りない。その上にも世に顔を出す事が出来ない恥辱の底へ埋めてやらなければ成らない。その積りを以て風間夫人に相談した。

 輪子の方は成るほど槙子に恨みが有ると云っても好い。実は自分の思い違いでは有るけれど、一旦自分の夫と決まって居た者を、槙子に横取りせられた様に思って居る。風間夫人に至っては、槙子に何の恨みも無い筈だ。そうサ、無い筈では有るけれど、所が有るのだ。

 何でも自分より外の人へ、幸いの落ちて居るのは総て此の夫人には恨めしいのだ。槙子が春山伯の姪と分かり、竹子夫人の相続人と分かった時に、早や悔しさが込上げた。

 何で自分にも、竹子夫人の様な金満の伯母が無いのだろう。何で槙子の様な運が、自分の身へは降って来ないのだろうと、是れも当然自分の物と為るべき運を、槙子に横取りせられたかの様に思って居る。

 それのみでは無い。その事の分かった時に、第一に知らない顔をして、槙子と丈夫との許へ駆け付けたのも、自分で有るのに、何の御裳(おすそ)分けにさえ与からなかった。今に見よとの一念が、その時から胸の中に蟠(わだかま)って居る。

 それだから、風間夫人も輪子から秘密の元を聞いたとき。輪子が喜んだと同じほど喜んだ。喧嘩して分かれた事などは思い出しもしない。
 「本当に貴女は感心に耳が早いよ。」
と褒めた。

 そうして二人で相談を始めたが、直ちに決着が附いた。槙子の様な者を「離縁」と云う様な、世に随分類の有る仕方で、済ませて置くのは勿体無い。直ちに此の秘密を、世間へ触れ散らなければ成らない。新聞にも出る様に発表しなければ成らない。

 その前に先ず、直々槙子に向かって、此の恥辱を言い聞かせ、槙子の恥入る様を見て、今までの恨みを晴らさなければ成らない。此の様な決心で取る者も取り敢えずに、二人は汽車に乗って伴野荘を指して行った。

 若しも二人の此の所業が、丈夫に分かったなら何うだろう。丈夫が千辛万苦で槙子へ尽くして居る親切を、此の二人が全く水の泡にしてしまうのだ。実に悪人と云う者は、始末の悪い者では有る。

 間も無く二人は、何の障りも無く伴野荘に着いた。着いて槙子へ面会を言い込むと、槙子は驚いて、勿論面会を断った。輪子は例の深山の声を出して玄関で咆えた。
 「槙子さんは自分の家でも無い家に居て、面会を拒絶するなど、その様な権利が有りますか。」

 早や言葉の中に、槙子が丈夫の妻で無くて、依然として波太郎の妻だから、此の家を自分の家の様にする事は出来ないとの意を含んで居る。更に一層考えると、此の家は丈夫の正当な妻であるべき、此の輪子の家だから、輪子を拒む事は出来ないとの意味も含んで居る。

 流石に風間夫人の方は、取次の者に向かっても、極まり悪いから、更に自分で進み出て、
 「実は非常な事をお知らせに、態々(わざわざ)ロンドンから来たのですから。最う一度そう申し上げて下さい。」
と丁寧に言い込んだ。

 槙子は一室の中で、唯だ泣いてばかり居たけれど、こう聞いては逢わない譯には行かない。何でも此の二人の事だから、私の身の不幸な状況を見て、内々で勝ち誇る為に来たのには違い無いと思うけれど、それなら猶更(なおさら)逢わなければ成らない。

 逢って私が、何も此の離縁に就いて、未練は残して居ないと云う様子を見せて、知らせて遣らなければ成らない。そうしなければ、後々まで口が五月蠅いと、健気にも気を取り直し、鏡に向かって、泣いて居た顔に涙の痕の分からない様にして、静かに立って出たのは、敵が何れほど強い武器を持って来たかを知らないのである。

 我が足元に、深い恥辱の陥穽(かんせい)《落とし穴》が出来て居ると云う事に、気が附かないのである。誠に憫(あわれ)むべしと云うべき者だ。この様にして応接の間に入ると、輪子と風間夫人とが、傲然として控えて居る。槙子は風間夫人の方に向かいい、

 「故々(わざわざ)ロンドンからお出でのご用事と云うのは。」
 極めて何気無い体で問うた。風間夫人が返事をしない間に、輪子は進み出て、
 「それは貴女の知らなければ成らない事を、貴女へ知らせる為なんです。貴女は今まで丈夫さんの妻の積りで、イヤ此の伴野荘の女主人の積りで居たのでしょうが、それが大変な間違いです。全体貴女と丈夫さんとの結婚からして間違って居るのです。」
と噛み附かん許りに云った。



次(本篇)七十


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