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hitonotuma7

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)七 「私しへの親切ですよ」

 ああ云えばこう云う。実に何したら此の輪子の意に叶う事が出来るだろうと、槙子は殆ど途方に暮れた。
 素より槙子は、成るべく此の家へ、費用なども掛けない様に仕度い。何うせ自分は、此の家の厄介者である事を免れない身だけれども、切めては此の家の人々から、顔を顰(しか)められない丈に仕度い。

 何うか何の人にも勤められる丈勤めて、同じ厄介でも此の者なら我慢が仕好いと位いには思われ度い。成る丈厭がられない様に、一同の機嫌を損じない様に、注意の上にも注意しなければならないと只管(ひたす)ら此の様に思って居る。

 是が人の厄介となる人の並べての情であろう。中には厄介と為りながら、此の家を横領し度いと云う風間夫人の様な、ズウズウしいのも有りはするがサ。
 だから槙子はいの一番に輪子から此の様に仕向けられ、一層何も云わない方が好いか知らんと、果ては黙ってしまった。けれど仲々黙らせても置かない。

 輪子「全体貴女は、伴野丈夫さんに、ロンドンからここまで一緒に来て貰うと云う事が有りますか。余り人の親切に、図に乗り過ぎると云う者です。」
 是が何よりも輪子の癪に障る所である。総ての立腹が皆此の一事から出て来るのだ。

 槙子「一時は私も断わりましたけれど、お聞き入れ成されませんので。」
 輪子「オヤそれでは何ですか。先が聞き入れなければアノ様な紳士を供に連れるのが常(あた)り前だとお思いですか。是は聞きましょう。貴女は今まで供など連れるのに慣れて居る身分でしたか。」

 何たる下品な言い様であろう。
 槙子「イイエ、供など私は少しもその様な心では有りません。唯だ初めての土地ですから、保護して来て戴いたのです。今まで紳士とも云われる方と一緒に汽車に乗った事さえ有りません。ハイ彼の様に親切の方に逢ったのは初めてです。」

 保護と云い、親切と云う言葉に猶更(なおさら)輪子の腹立ちを煽(あお)り立てた。
 輪子「貴方は丈夫さんの親切を勘違いしてはいけませんよ。あれは決して貴女への親切では無く、私への親切ですよ。」
 槙子「私が何うか槙子へ親切に仕て下さいと頼んで置いたのです。アノ方は只だ私から良く思われ度い為に、私の頼みを頼んだよりも余計に勉めるのです。それは何時もの事なんです。分かりましたか。」
と念まで推して、暗に丈夫が自分の許嫁ででも有る様に覚らせ掛けて居る。

 槙子は果たして悟った。
 「アア、成る程その様な事だろうかと思いました。」
 此の一語で輪子は忽ち嬉し相に早替りをして、
 「エエ、貴女の目にもその様に見えましたか。アノ丈夫さんが私の為にーーーと云う様に、ナニ未だ約束が極まったと云う譯でも有りませんのさ。実のーーー所は私の方で、何と返事しようかと未だ考慮中なんです。」

 嘘ばかり云って居る。
 急に機嫌が直ったのを見て槙子は漸く安心し、
 「追って貴女のお返事が何方(どちら)かと云う事は、大抵御推量が出来ますよ。」
と笑みを浮かべて祝辞の様に述べた。輪子は涎を垂らさない許りの様で、

 「ですけれど、人は言ったり、からかったり仕ては厭ですよ。」
 実に変わり方も劇(はげ)しいが、又、何たる愚か女だろう。
 「槙子さん、阿父(おとつ)さんの云った通りお茶を入れますから、今降りて入らっしゃいよ。此の家では中食が午後の二時半で、晩餐が夜の七時に始まるのです。」
こう云って立ち去ったが、やがて、

 「乳母の部屋に出来ました。」
との言伝をその乳母に托して寄越した。
 中食とは唯だ茶と麭包(パン)と、一片の冷肉か菓子ぐらいの者である。間も無く槙子が降りて行くと廊下で博士に逢った。博士は我が娘を傷(いた)わる様にその手を取って、

 「後ほど私の部屋へ来て。和女(そなた)の夫の事を話してお呉れ。」
 槙子は何か非常に恐ろしい言葉でも聞いた様に、忽ち顔色を変えた。
  博士「イヤ波太郎の死ぬ迄の有様を一応和女の口から聞き度いと云う事さ。」

 云われる迄も無く槙子から進んで云わなければ成らない所である。博士は槙子の異様に躊躇する様を見て、
 「爾(そう)、爾ー--爾、ナニ和女も思い出すnおさえ悲しくなる事柄だから、今日に限った事では無い。何時でも気の向いた時に。爾(そう)、爾。」

 槙子「イイエ今日、良くは申せませんけれど、申し上げましょう。」
 此のまま博士に連れられて中食の部屋へ入った。
 今度は風間夫人が目に角を立てた。まさか博士が自分の娘分を後妻に直す筈は無いから、是は嫉妬の為では無い。けれど何にしても同じ厄介者の中で、自分よりも余計に博士に接近する者が有るのは決して好まない。

 自分だけは厄介者と云う範囲を無論脱して居る積りだから、猶更厄介者が自分より、何に就けても優先の地に立つのは不法だと、こうまでに思って居る。此の風間夫人に若し悪く睨(にら)まれては、決して輪子に苛(いじ)められている比では無い。
 槙子の此の後は中々容易では無い。



次(本篇)八

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