巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma71

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.5.23


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)七十一 「手柄は自分へ」

 実に槙子は、発狂したのだろうか。風間夫人と輪子とが立去った後で、悲しまなければ成らないのに、嬉し気である。鬱(ふさ)いでばかり居た今までの様子に引き換え、気も軽く身も軽い。急いで僕(しもべ)を呼び、停車場までと云って、馬車の用意を命じた。そうして用意の出来る間に急いで育児室へ馳せて入った。

 ここには貞夫が、乳母の手から離れて、寝台の真ん中に昼寝して、具合の好い事に良く眠って居る。槙子はその顔の所に俯向(うつむ)き、綿より柔らかいその頬に、ソッと自分の頬を当てて、

 「坊や、お喜び、遠からず阿父様(おとうさま)に逢わせて上げる。其方(そなた)の阿父様は、世間に二人と無い正直な、親切な、そうして慈悲深い方だから、オオ其方に何時までも阿父様の顔を見せる事が出来ないかと、私は何れほど悲しんだか知れない。」

 真に愛と喜びとが溢れて居る様に見える。そうして更に、何で此の様に様子が急に変わったかと、驚いて傍に見て居る乳母に向かい、
 「日の暮れ頃に帰るから」
と言って、留守の間の事を云い聞かせて置いて、又忙しく自分の室へ這入り、匇々(そこそこ)に身支度して今度は玄関へ出た。

 ここには早や、用意の出来た馬車が待って居る。之に乗って直ぐ停車場へ行ったが、丁度ロンドン行の汽車が出る所なので、それに乗り移った。此の汽車には、先刻の輪子と風間夫人とも乗って居る。室こそは違うけれど、常に窓から顔を出して見る癖の輪子が、早くもそれと知って、風間夫人と共に内々様子に気を附けて居た。すると槙子はブルードで汽車を降りた。

 輪子は驚かない譯に行かない。
 「何うしましょう風間夫人。槙子は必(きっ)と私などの事を父博士(おとつさん)へ言付けに行ったのですよ。若し父博士が立腹して、私と貴女とへの恩給金を、減らししないだろうか。」

 如何にも当たり相な推量である。
 風間夫人「ソレ御覧なさい。貴女が私を誘い出したから悪いのです。若し私への恩給が減れば、貴女の分で差し引きますよ。」
 何でも手柄は自分へ、過ちは人へと移し合うのが、此の両女の癖である。
 しかし槙子は両女の推量とは違う。父博士の許へは行かず、真直ぐに丈夫の母の隠居所へ行った。

 母御は槙子の名を聞いて愛想好く出迎えはしたけれど、心に心配が満ちて居るので、何と無く気が晴れない所がある。多分はもう丈夫と槙子との離縁の手続きが終わったので、最後の暇乞(いとまご)いに来たのだと此の様に見て取ったらしい。

 けれど槙子が心配の猶予を与えない。座に附くや否や、
 「阿母(おっか)さん、今までの事を何うかお許し下さい。先達てお目に掛った時など、アノ様な恨みがましい事ばかり申し上げて誠に済みませんでした。

 貴女にも済まず丈夫さんにも済まず、私は何うしたら好いだろうかと思いますけれど、丈夫さんの慈悲深い成され方が、今は浸々(しみじみ)と分かりました。私へ何事も知らせ成さらずに、ハイ私が間違った事ばかり云って恨んでも、小言一つ仰有らず、イイエ春山伯からも、随分厳重な詰問の手紙を遣って下されましたけれど、其の返事の手紙に、少しでも私を責めた所が無いと言って、伯も是ばかりは意外だと仰有りました。

 それを知らずに私の方では、只だ恨んで許り。そうして丈夫さんの方ではその恨みを悉く引き受けてまで、私の身を保護して下さるとは、此の様な御親切は又と有りません。阿母さん、幾等お詫びしても足りませんけれど、何も彼も分かりましたから、何うか今までの事はお許し下さい。」

 言う事は良く分かって居るけれど、此の前に来た時と余り変わり方が酷(ひど)い。全く別人の様である。母御は怪しみつつ、
 「何も彼も分かったとは、本当の事の仔細がーーー。」
 槙子「ハイ分かりました。分かりました。アノ波太郎が生きて居て、此の国へ帰って来ましたので、それで丈夫さんが、イイエ、口止めのお金を与えて、再び外国へ立たせた事まで詳しく聞きましたよ。」

 母御「それを聞いたにしても、和女(そなた)の嬉し相な様子は何と云う事か。波太郎が生きて居れば、和女の恥辱は何れほどとお思いだ。」
 槙子「イイエ、波太郎などは何うでも好い。私は事の元が分かって、再び丈夫さんと一緒に成られるのが嬉しいのです。」

 母御も輪子が「本物」と云ったのと同様に、真に発狂でもしたのでは無いかと怪しんだ。母御の顔は急に厳重に成った。殆ど叱る様な語調である。
 「波太郎が生きて居て、和女(そなた)は丈夫と一緒に成れると思うのかえ。たとえ波太郎が再び外国へ行ったとしてもーーー。」

 槙子は、
 「ハイそれだから私は、今まで丈夫さんを欺(あざむ)いて居たと云うのです。春山伯からも叱られました。そればかりは幾重にもお詫びしますが、お喜び下さい、阿母(おっか)さん、私は波太郎と婚礼したのでは有りません。」

 意外の言葉に母御は、
 「エ、波太郎と婚礼しなかった。」
と驚き問うた。驚くと共に又一層の忌まわしさが母御の胸に湧き起こった。若しや波太郎と婚礼せずに夫婦と為った者では無いか。野合の果てに子が出来て、夫婦同様に成ったと云う、堕落の境涯に居たのでは無いかと云う輪子の確か相な言葉を聞いて、丈夫は婚礼の前にも唯だそればかりを苦にして、その為に何れほど心を痛めたか知れない。

 今は全く槙子の口から、その事を白状して居るのだ。幾等風儀の乱れた豪州(オーストラリア)に居たとしても、波太郎と婚礼を経なかったのを幸いに思い、その身が汚れて堕落した事を吹聴するとは、何と云う心だろうと、母御は殆ど呆れ掛けた。

 「その様な事を云って呉れない方が余ほど私は嬉しいよ。和女(そなた)が丈夫と婚礼の前にも、私はその事を問うたじゃ無いか。若しや波太郎と婚礼を経なかったのでは無いのかえと。」

 槙子「ハイあの時に申し上げれば好かったのです。実は貴女の方でお気が附いた事かと思いました。阿母さん、私は槙子では有りません。今申しては済みませんが私は松子です。」

 母御は未だ思った。
 「それは和女の伯母竹子夫人も、此の子は槙子で無い。松子の方だと明らかに云った相だから、私は今更ら怪しみもしないが、槙子だとて松子だとて何も事柄に違った所は無い。もうその様な事を云ってお呉れで無い。」

 何だか、槙子イヤ松子の云う所と、母御の合点して居る所とは、相違が有る様に思われる。



次(本篇)七十二


a:122 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花