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hitonotuma73

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)七十三 「よい人に憎まれた」

 実に重大な間違いである。イヤ奇妙な詐偽である。けれど事情を聞いて見れば深く咎める所は無い。のみならず大いに憐れむべきである。母御は驚きと喜びが半々で有った。
 「その様な事なら何故早く打ち明けて呉れなかったのだ。誰も怒りも何もしないのに。」

 槙子ならぬ松子、
 「貴女と云い丈夫さんと云い、余り善いお方過ぎますので、打ち明けようと思う度に、却(かえ)って私の心が挫けました。真に阿母(おっか)さん、是が為に私は、婚礼前も婚礼後も何ほど辛い想いをしたかも知れません。

 竹子伯母さんの事が分かった時などは、寧(いっ)そ名乗らずに、知られないままで終わろうかとも思いました。けれど此の度の辛さに比べれば、それは何でも有りません。尤も私が辛いのは、自分の心がけからですので致仕方が無い様な者ですが、それが為に阿母さんと丈夫さんへ、此の様な御迷惑を掛けまして、私は此の後、何の様にすれば此の罪が消えるだろうと思ってます。」

 母御は非常に真面目に、
 「イイエ総て、嘘とか偽りとか、又は悪事とか云う者は、自分の身を苦しめるのみならず、譯も知らない人の身まで苦しめます。シタが何うして今度の事柄が、波太郎が生きて居る為に起こったと、和女(そなた)へ分かったのかえ。」

 松子は輪子と風間夫人とが尋ねて来た次第を、細かに説いた。母御は之には微笑を禁じ得なかった。
 「和女はホンに良い人に憎まれたねえ。両女が和女を憎まなければ、何時までも間違いが治まらずに居る所であった。」

 松子は嬉しさに耐えられない顔で、
 「ハイ、故々(わざわざ)私を窘(いじ)めに来て呉れた事が何よりも有難かったのです。真に私は心底からお二人の背影(うしろかげ)を拝みました。」

 驚きと喜びと半々でも、驚きの方は一時、喜びは永久である。母御は全く打ち解けて、
 「私は丈夫が和女を妻にすると云った時、賛成はしたけれど、唯だ和女が波太郎の妻で有ったと云う事が、取り分け気に障(さわ)った。丈夫自身は初婚であるのに、再婚の女を迎えるとは、誠に残念な者。

 特に人も有ろうに、波太郎の様な者の妻で有ったとは、廻り合わせの悪い事だと、此の様に思いました。けれど和女の行いから、心栄えに見上げる所が有ったから、それに免じて賛成し、此の頃までも、この様な女が何うして彼の様な男の妻に成ったかと、何だか合点が行かなかった。」

 松子「ハイ、私も此の国へ来ましてから、波太郎の名を聞く度に、腹が立って成りませんでした。姉の身代わりに成って居るのは少しも構ひませんけれど、彼の寡婦だと人に思われるのが如何にも辛く、エエ彼さえ居なければ、この様な辛い恥ずかしい思いはしなかったのにと、彼の名を何うにかして揉(も)み消し度い様に思いました。」

 母御「オオそれで分かった。和女(そなた)が波太郎の名を云ったり聞いたりする度に、仇讐(あだがたき)の名か何ぞの様に厭な顔をし、直ぐに話を外へ移す様に見えたから、私達は何かその邊に秘密が有るのだろうと思い、内山夫人や道子さんなどとも、もっと槙子が波太郎の事を弁護し相な者だなどと云って居ました。

 幾等人が知った悪人でも、自分の夫とした者を、後で彼(あ)の様に悪く云うのは人情で無いと。多分は丈夫もそう思っただろう。」
 過ぎ去った事まで嬉しさの材料に加えて、殆ど喜びの尽きない様に見えた。

 考えれば考えるだけ益々嬉しい。母御はその嬉しさを語らずには堪(こら)えて居られない。
 「ホンに丈夫としても、和女(そなた)が波太郎の妻で有った事を、実は初めから気に掛けて居る。ナニ愛の為にその事は忘れた様に、心を持って居るけれど、和女が彼の妻で無かったと分かったなら、今度の事が無かったとしても、何れほど喜ぶかも知れない。多分は愛の情が十倍も深くなるだろう。」
 松子は甘へる様に、
 「最う是より深く成り様は有りませんよ。」
 母御「其れは爾だ。私が見ても丈夫の和女を愛する様は、人間の愛の極度とも云ふ者だらう。況して此の度の事が有ったのだから、丈夫は蘇生の思ひもするだらう。」

 松子「阿母さん、丈夫さんが幾等お喜び成さっても、私の喜びには越しません。」
 母御「オオ、オオ、もう幾等喜んでも好い。和女も一旦の過ちは、充分贖ふほどの苦労をした。丈夫や私を欺いて居たのが、たとえ罪とした所で、その罪はもう亡びた。綺麗に消えてしまった。」

 松子「私は直ぐに之から印度へ行き度いと思います。一刻でも早く丈夫さんに、その思い違いを知らせ、波太郎が百人生きて居ても、決して心配に及ばないと、早く安心をおさせ申し、そうして一緒に此の国へ帰って来ようと、今日はこう思って、その暇乞いに上がったのです。」

 母御「アアそれは当然の事、直ぐに印度へ立つが好いだろう。けれど松子や、印度から誠に悪い知らせが有ったよ。」
 松子「悪いとは。」
 母御「丈夫が先頃から病気で、次第に重くなる許りと云う事を先日医者から。」

 松子「では猶更(なおさら)早く行かなければ成りません。シテ病気とは何の様な。」
 母御「詰まり此の度の心配と悲しみとが元で、一種の気病みが重く成ったとの事。若し熱でも出れば余ほど気遣わしいとやら言うから、私は実は、自分で行き度いと迄に思って居た。」

 話の途中の所へロンドンから次男が来た。彼の最初の言葉は、
 「阿母さん、又印度の医者から手紙が来ましたよ。益々兄の病気が悪い様ですが。」

 松子は何事も忘れた様子で、
 「何の様な病気でも、私が行って直します。」



次(本篇)七十四


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