巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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hitonotuma74

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)七十四 「大尾」

 是から三日と経たないうちに、槙子の松子は、赤ん坊と召使二人とを連れて印度へ立った。
 次男の方は、鈴子との婚礼の日が、二週間後と定まって居るので、それを済ませて立つ筈なのだ。

 海路五週間は、普通の旅客にさえ随分長く感ぜられるのに、況(ま)して危篤な夫の病を気遣う松子に取っては、その悶(も)どかしさは、殆ど限り無しである。間に合うだろうか、間に合わないかも知れないとの念が、絶え間なく心を襲って居る。

 松子が出発して数日の後に、又印度の医者から次男の許へ、今度は電報で、
 「病益々重し」
との知らせが来た。之には母御さえも、その老体を厭わずに、次男鈴子と共々に印度へ行くと云う事になり、直々に丈夫へ宛て、一同行くから気を確かに持てとの返事の電報を発した。

 此の事を松子が知らないのが猶(まだ)しもの幸いである。若しこうまで危急と知ったら、船の中で悶(もが)き死ぬかもしれない。けれどここに、松子より更に一層悶(もが)き苦しんで居る者がある。それは病人自身伴野丈夫である。

 彼は天性、何に就けても愛と云う情の、極めて深い男であるのに、今は千里の異境に、一人の親しい顔も見ずに、客死する場合と為って居るのだ。もう死ぬ外は無いと、覚悟は決めて居るけれど、母の許から一同行くと云う電報が来て以来、何うか母の着く迄は生きて居たいとの念が仕切りである。けれど其の見込みが甚だ覚束なく感ぜられるので、

 「早く船が着けば好い。早く日が経てば良い。」
と日に幾度と無く指を折って、唯だ母の来る方をばかり眺めて居る。
 電報が着いてから三週間目の日に、盂買(ボンペー)の湾頭で一発の号砲が響いた。是は英国から郵船の着いた知らせなのだ。丈夫は寝台の上に、力の無い身を起こして、

 「アア此の船には誰も来ない。まだ十四日待たなければならない。そうは待てない。そうは待てない。」
と恨めしく呟いた。
 けれど暫くして此の部屋に入って来た看護婦が、
 「貴方、今の船で阿母(おっか)さんより、もっと好い方が来らつしゃいましたよ。」
と彼の耳に細語(ささや)いた。

 惜しい哉、彼は此の時既に熱に浮かされ、その何事たるかを理解する事が出来ない。看護婦は少し失望の体で退いたが、引き違いに入って来たのは、松子である。松子は丁度来合わせて居た医者から、次の間で容態(ようだい)やら介抱の仕方をなどを、聞いた上で入って来たのである。

 素より病耄(やみぼ)けて居るだろうとは覚悟の上であった。けれど、一目丈夫の顔を見ると、直ぐに次の間へ引き返して泣き伏した。後に附いて居た医者も同じく引き返して、

 「貴女はそう気がお弱くてはいけません。看護する人の顔に心配の色が見えるのが、何よりも病人に徹(こた)えるのです。」
 松子「それは良く知って居ますが、暫くここで泣かして下さい。アノ衰えたお姿は、何も彼も私のした事です。泣いてしまわなければ、介抱も出来ません。」

 声は立てないけれど、俯伏(うっぷ)した背中に、波の立つほどに泣いた。そうして暫くして心が漸(ようや)く鎮まると共に、今度は踏む足も確かに、又病室の中へ入った。実に丈夫の窶(やつ)れた様は並大抵では無い。是れが何うして此の世の人と為るだろうと、早や絶望が先に立つほどである。

 しかし松子は再び泣かない。先ず丈夫の両手を我が手に取り、その正気に返るのを待って居ると、間も無く丈夫は熱に燃える目を開いた。松子は直ちにその枕の下へ自分の手を入れ、

 「貴方、貴方、私が参りましたよ。私の顔が分かりますか。」
 丈夫は弱い声で、
 「オヤ」
と云って松子の顔を眺めたが、
 「アア分かった」
と云った切り又目を閉じた。

 今度は何か考えようとして必死に自分の思想を、一所
へ集めて居るらしい。全く物事を考える丈の凝集力を失ったのだ。
 真に考える事が出来たならば、松子の手を押し退けたかも知れない。けれど今は考えを以て愛に勝つと云う力は無い。捜す様にして松子の手を取り、

 「何うして来た。阿母さんも知っているのか。」
 松子「ハイ阿母さんが行けと仰有いました。」
 丈夫「次男は」
 松子「次男さんも行けと仰いました。」
 丈夫は合点の行った様に、

 「アア己の病気は余っぽど重いのだ。」
 争いもせず、唯だ総て人任せと断念(あきら)めてしまったらしい。
 松子「ナニ御病気の為で無くても来る所ですよ。貴方、私が来ましたから何うか早く快(よ)くおなり成さって下さい。」

 丈夫はニッコと笑んだままである。その意味は分からないけれど、兎も角この様な重病人の顔に、笑みらしい者が現れたのは愛の力である。此の様を見た医者も多少は見込みを回復したらしい。

 全く此の時が病の絶頂で有った。若し松子が来なかったならば、峠を向こうへ越えたのだろうが、松子が来た丈に、越えずに二日ほど其処(そこ)に留まり、そうして極少しでは有るけれど、此方へ帰り相に見えた。

 その間の松子の介抱に尽くした事は、筆や言葉に現わす事は出来ない。全く人間の力の限りを加えたのだ。そうして丈夫の心の確かな時には、少しづつ、極柔らかに自分の過ぎ越し方を話し、波太郎の妻でも何でも無かった事を説き聞かせた。

 その事が納得が行ってからは、丈夫は松子の手を放さなかった。そうしてその放さない手から、力を附ける一種の電気でも通うのか、譫言(うわごと)無しには眠られなかった者が、呼吸も平に眠り、一匙とは咽喉を下らなかった薬や滋養の飲み物も、二匙、三匙、段々多く咽喉を下って、一週間めには初めて、

 「貞夫は何うした。」
と問うた。直ぐに松子は坐を立って、自分で貞夫を抱いて、その愛くるしい頬を父の顔に当てさせた。

 熱も下がった。心も正気を失わない様に成った。考えもする。合点もする。こうなっては日に日に嬉しさの加わるのみである。
 「オオ俺の身にまだ是れほどの幸いが残って居ようとは思わなかった。」
と云うのが彼の繰り返しての言葉で有った。

 「俺は此の国へ来る前でも、イヤ和女(そなた)と共に幸福の中に埋まった様な気がして居る時でも、何だか波太郎の事が気に成って、心の底を刺される様な気持ちがして居た。」

 松子「その時にそう仰って下されば好かったですのに。」
 丈夫「ナニ過ぎ去った人の事を嫉妬らしく云うのは、余り男らしく無いと思って。」
 松子「そう云って下されば、早く打ち明ける事も出来ましたのに。」

 丈夫「イヤ、是だけの艱難を経て却って好かった。是れで二人が、分かれては暮らされない事も良く分かった。」
 松子「ハイ分かり過ぎるほど分かりましたから、もう生涯分かれません。」
 此の様な話が二人には嬉しくてならないのだ。

 そうして二週間の後に母御が次男や鈴子と共に着いた時には、丈夫は床の上に起き直って、瘦せた顔に包み切れない程の笑みを浮かべた。母御は気も軽く、
 「この様な事なら、私は来るに及ばなかった。」

 此の後の事は記すには及ばない。次男、鈴子の夫婦は印度に今以て栄えて居る。丈夫、松子、母御、貞夫は四月の後に目出度く、伴野荘へは帰って来た。
 此の事を聞いた大津博士は例に依って、
 「爾(そう)、爾、爾」

(完)



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