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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         
    (序篇)十 「序篇の終わり」

 博士が自分よりも若い美しい女と同道して居るのは風間夫人に取り余り幸先が宜しく無い。夫人は馬車で帰って第一に輪子に問うた。
 「今の中山夫人とかには、御亭主は無いの。」
 輪子「ハイ貴女と同じ未亡人なんですよ。」
 夫人は自分の事を棚に上げ、
 「死んだ亭主の事なんかは全く忘れて居ると見える。余り心掛けの好い婦人では無い事ねえ。」
と譏(そし)った。

 是より風間夫人は愈々(いよいよ)博士の家に身を落ち着け、何でも輪子から先に取り入る積りだから、充分輪子の気に入る様に努めた。第一に輪子と丈夫との間を篤と聞いたが、余り見込みが有る様にも思われない。此の夫人は自ずからが随分輪子と同じ失望を嘗めて来たのだから、否、今も猶を嘗めつつ居るのだから、その辺の機微を察する事は早い。

 けれどその実、輪子の事などは何うでも好い。自分の身が此の家へ根を卸しさえすれば本望なので、輪子へは成るべく見込みの有る様な事を聞かせ、先ず第一の策として、丈夫と手紙の遣り取りを初めなければいけないと教えた。輪子はその知恵に感心して、早速手紙を認め、風間夫人の検閲を請うたが、夫人は文など書くには妙を得た人で、悉くその文句を直した。輪子は之を見て、

 「余り文句が他人行儀過ぎて、是では通例の手紙に成りませんか。」
と問うた。
 「イイエ貴女と丈夫さんは、未だ許嫁にも何にも為って居ないのだから、文句は成る丈冷淡で、文句の外に情を含んで居なければいけません。」
と軍師が兵略を説明する様に答えた。輪子はその意に従って、直された通りに書き直して郵便に託した所、相当の日数を経て、丈夫から大層喜んだ返事の手紙が来た。

 是から後は総て風間夫人の下書きで、怠らずに此方から出せば、向こうからも屹度(きっと)来る。全く恋人同士の様に絶え間の無い通信往復を開いたが、夫人は丈夫からの返事を篤と読んで見るのに、文言も書体も言い分の無いほど立派には出来て居るが、何うも文句の外に少しも情を含んだ所が無い。さては此の紳士は、決して余計な事を喋べって、人に言質を取られる様な思慮の足らない事をしない人だと見て取り、是では輪子に向かって、別に縁談らしい事を仄めかした事さえ無いだろうと、或る日その意を輪子に告げた。

 輪子は恨めしそうに、
 「本当にそうですよ。言って好い丈の事より外は冗談も云わず、一口でも謎の様な言葉を吐かない人です。私はその気質が憎くて堪(たま)りませんから、他日愈々亭主にしたら、思う様に窘(いじ)めて敵を取ります。」

 夫人は腹の中で笑った。
 丈夫が国を去ってから大方二年程に為り、彼れは近々帰国すると云って来た。此の間手紙の遣り取りは規則の様に続いて居たが、向こうの情が果たして進歩したか否かは、風間夫人にも分からない。けれど輪子は大喜びで、

 「帰って来れば屹度縁談を申し込みますよ。彼の立つ前私が父から五万ポンドの婚資を附けて呉れる事を彼へ話して置きました。彼は貴族でも非常な貧乏ですもの。」
と云った。風間夫人は度々の通信で、今は良く彼の厳重な気質を知って居るから、

 「アアそれが何よりも大失策でした。その婚資が有ると聞いたから彼は縁談を言い込まずに去ったのです。貴女は彼の気質を全く読み損じて居ます。彼は遂に貴女の物には成らないかも知れません。」
と嘆息した。

 此の二年近くの間に他の人々は如何にしていたのだろうか。
 博士は内山夫人と風間夫人の間に中立して、
 「爾(そう)、爾、爾」
で持ち切って居る。丈夫の弟次男は印度で中々真面目に稼ぎ、母の許へ来る手紙でも大方身が立ち掛かって居る事が分かる。之に反して豪州に居る波太郎の方は、金の無心より外は父の許へ手紙を寄越さない。寄越す度に自分の宿所の変わって居る所を見ると、余り身が定まって居そうも無いけれど、聊(いささ)か意外なのは、行ってから六カ月ほどして、槙子と云う妻を迎へたとの事が手紙に有った。

 無論婚礼の費用が非常に掛ったから、金を呉れとの文句で有った。その後来た手紙に妻が懐妊したから金を呉れと有った。何の様な女だか知らないけれど、波太郎の妻では随分苦労が絶えない事だろうと一川二山両夫人などは噂した。

 所がここに驚くべき一事が出来た。或る日博士へ宛て豪州から、黒い輪郭の付いた手紙が来た。誰かの死んだ知らせに極まって居る。併も波太郎の筆跡では無いのだから、若しや波太郎が死んだのでは有るまいかと、封を切って見ると果たしてそうだ。文句も文字も拙(つたな)いけれど、

 「父上様へ、嫁より」
との書き出しで下の通りだ。

「私の所夫波太郎は、出先で地震の為め怪我して急死致し候。私へ何の手当も遺さず、私は今が臨月で困って居ます。父上は慈悲深く裕福だと波太郎から兼ねて聞いて居りますので、お願いに及び何うか私と頓て生まれる赤児の為、手当して下されるようお願いします。

 尤も度々波太郎へ、お金を送り下された事は、存じて居りますがその金は皆波太郎が使ってしまい、私は一文も受け取って居ません。今度も食う物さへ無くて、長く留守して居りますうち、波太郎の死んだ事を鉱山局長から知らされました。波太郎は私に取り、悪るい所夫で御座います。

 私は一人の姉妹が、音楽学校から受ける給料で、命だけは支えて来ましたが、姉妹も今は免職と為り、私の病気が全快次第、他の口を求める筈ですので、最早や何の手当もして呉れる事出来ません。貴方がお助け下されなければ、病気のまま飢死にして仕舞います。飢え死ぬのが迫って来ました。
病床にて筆も動かず、文言も不束至極なのは御許し下さる様お願いします。
                          大津 槙子
  父上様

 実に突然の事だから博士のみならず一同共に驚いた。中でも博士は、
 「爾(そう)、爾、爾、爾」
の声さえ出なかった。

 一家の評議はまちまちで有ったが、何でも此の様な拙い手紙を書くのだから、教育の無い賤しい女だろうと云うのは風間夫人で、
 「早や大津と云う此の家の姓を名乗って、阿父さんを父上などと我物顔に云うのは失礼な女だ」
と云うのは輪子で有った。

 妹鈴子の方は此の前に、早や医学修行の為に、ロンドンの姉道子の家へ行き、ここには居ないのだ。そうして風間夫人は
 「五十ポンド送って遣れば沢山だ。」
と云い、輪子は、

 「二十ポンドより上を送るには及ばない。」
と云った。独り真実に慈悲の心持って、此の槙子の身の上を憐れんだのは父博士で、
 「波太郎の妻なら私の娘だ。その子は私(わし)の可愛いい孫だ。」
と云って大枚四百磅(ポンド)の金を封入し、
 「孫を連れて英国の此の家へ帰れ。」
と書いて送った。

 帰れとは実に親切な言葉ではないか。輪子は非常に立腹したが、風間夫人の方は、直ちに博士の部屋へ行き、此の家中で自分一人が大賛成だとの意を述べて、
 「そうですとも、貴方の御身分として怪痴(けち)な事が
出来ますものか。三百磅は送らなければ。四百磅なら恩典です。」
と叫んだ。

 こう云って置けば、たとえ自分が目的を達せずに此の家を去るにしても、自分への恩給が殖えこそすれ、減りはしないのだ。日を経て槙子から二度目の手紙が来た。今度は病気も回復した為と見え、殆ど別人かと思う程に、文句も筆跡も見事で、風間夫人さえ非を撃つ所が無い。

 最初に無事女の子が生まれた事を記し、次に送って呉れた金が多過ぎると云って、真に有難相な礼を述べ、それから此の国では一人も頼りにする人が無いから、次の便船でお言葉に甘えて赤児を連れて帰り、その中に何か職業を求めて、そうそう御厄介を掛けない事にすると述べ、そうしてその末文に、

 「前の手紙は病気中で、殆ど何を認めたのか、自分ながら覚えて居りません。きっと失礼な事をのみ陳べました事と、今さら御恥ずかしく存じております。何も彼も病気や貧苦の為と、幾重にも御許し下さりますようお願い申し上げます。」
と如何にも女らしい、非常に優しい断わりを添えてある。

 風間夫人は博士から此の手紙を示されて、
 「是では立派な貴婦人だけの教育は受けて居るのだ。」
と呟いた。
 是れだけが「人の妻」の序篇である。
 是から徐々(そろそろ)本文に掛るのだ。



次((本篇)一

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