巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotumajyo3

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.3.4


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

 人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         

       (序篇)三 「人間の言葉」

 総て厳格な人は余り親切心が無さ相に見えるけれど、本当の親切は却って厳格な人に在る。親切らしい人の親切はややもすると口先ばかりで、中途から消えてしまう事も多いが、厳格な不親切らしい人の親切は終わりまで貫く者だ。少なくとも伴野丈夫(じょうぶ)の親切はこの類だ。是が本当の親切なのだ。

 次男は殆ど感奮した。
 「兄さん、兄さん、貴方へ御厄介を掛ける度に私はもう是れ限りで、佶(きっ)と行いを改めると云い、そうしてはその言葉がいつも反古(ほご)に成って仕舞いますから、今更何を云っても、又かとお笑いでしょうけれど、今度と云う今度はしみじみ自分の愚かさを悟りました。是からは全く真人間に成りますから、この度の事ばかりはお許し下さい。

 とても最(も)う兵営に居ては、傍(はた)が波太郎の様な悪い友達ばかりですから、私は早速今の職務を売ります。そうしてその売った金を資本(もとで)に、何所か友達の無い外国へでも行って自活の道を求め、再び貴方や阿母(おっか)さんに決して御迷惑は掛けない様にしますから。」
と全く真心を出して詫びた。此の様な事には兄丈夫は厳格である

 「そうするのが人間の道だ。出来るならそうせよ。」
と膠(にべ)も無く言い渡した。
 是から丈夫は、明日愈々(いよい)よ大津博士の許を尋ねて行くに就いては、博士の家の有様を、一応次男に問うた。

 次男「ブルードと云ふ土地です。明日私が兵営に帰る道ですから、そこまで一緒の汽車で行きましょう。」
 丈夫「ブルードは知って居るよ。この家の先祖が隠居所にと云って小さい別荘を建てた近所だろう。」

 次男「そうです。隠居所の直ぐ傍(そば)で。天文台と化学試験室との有る家ですから直ぐに分かります。」
 丈夫「それでは今に、この家と博士の家は近所交際をする事になるのだ。」
と丈夫は嘆息と共に云った。

 その心は、遠からずこの伴野荘を人手に渡し、自分は母と共に先祖の建てた隠居所へ蟄居(ちっきょ)すると云うのに在るのだ。次男は今更の様に、
 「愈々(いよいよ)隠居所に引き籠るお積りですか。」
 丈夫「ナニ心配するな。貴様の事の有る無しに拘らず、この家に居ては費用が張るから、何うしても蟄居の外は無い様に成って居る。この家は堅い契約を定めて債主に渡せば、阿母さんの生活の料だけは充分出て来る。俺はその上で役人にでも成って、少しづつ貯金する。」

 次男「兄さん、何度云っても同じ事ですが、もう決してーーー。」
 丈夫「そうよ。二度と母様に御心配を掛けない様にして呉れ。」
 次男は、
 「きっと仕ます。きっと仕ます。」
と繰り返すのみである。

 丈夫「シタガ、博士の家には大勢の家族が有るか。」
 この問に何故か次男は少し顔を赤くし、
 「ハイ波太郎の妹が二人あります。姉もある相ですが是はロンドンへ縁附いて、家には居ないのです。」

 丈夫「それ切りか。」
 次男「ハイ波太郎の母は先年亡くなりましたが、仲々親類の多い家で、いつでも遠い縁類の伯母さんだとか、近い伯母さんだとか云って、趣味の話ばかりする婦人が二三は逗留して居ます。」

 丈夫「博士は」
 次男「大抵、化学室か、天文台へ閉じ籠り、少しもこの世の事には執着しない様です。偶(たま)に出て来た時に見ると非常な善人で、私などを自分の子の様に可愛がります。」

 丈夫「子の様に可愛がって呉れる恩をば、手形偽造で返すのか。併し貴様が全く後悔して居るなら諄(くど)くは云わない事にしよう。」
 是だけで話は終わり、丈夫は母の部屋に行き、夜の更けるまで相談したが、全くこの伴野荘を人手に渡す話を附けたと見え、時々母御の泣き声が洩れ聞こえた。」

 そうして翌朝、食事の済んだ後になると、次男は一通の手紙を持って、昨夜に引き替え、勇み立って兄の許へ来た。
 「兄さん、何も彼もうまく行きました。之をご覧下さい。」
とその手紙を差し出した。

 丈夫が受け取って読んで見ると、博士の息子波太郎から来た手紙で、到頭父に打ち明けた所、父が早速千ポンド出して、その手形を払って呉れたとの旨を認めて、その終わりに、

 「父は少しも君を非難せず、罪は全く僕一人に在る様に云い、僕が二人前説教を聞きました。君も若(も)し未だ真四角な君の兄に打ち明けていないならば、打ち明けずに済ます方が宜しいと思います。」
と非常に乱暴に書いて有る。丈夫は読み終わって唯だ顔を顰(しか)めた許りで、少しも嬉しそうには見えない。

 次男「兄さん、もうお出で成さらなくても宜くはありませんか。」
 丈夫「馬鹿を云え、猶更ら行かなければ成らない。金の半分は貴様が使ったと云うでは無いか。それを残らず博士に払わせ、知らぬ顔が仕て居られるか。直ぐに弁済は出来ないけれど、何とか言い訳して、返す約束だけでもしなければ成らない。」

 丈夫の言葉は全く人間の言葉である。人間の世でも人間の言葉を聞くのは極稀れな者だ。
 この様にして此の日の昼過ぎに兄弟は汽車に乗り、プルードの停車場まで行くと、兄の方は分かれて降りた。

 口には最早や何とも云はないけれど、実に辛い用事である。若し博士が何にも知らない中なら、却って仕易いけれど、知って既に全額を払った後では、直ぐに現金を出して返済するでは無し。益々きまりの悪い断わりを云わなければ成らない。この様な場合に臨んで、此の様な用事を、我慢して果たしに行ける若者は、沢山は無いだろう。

 やがて博士の家に到ると、如何にも博士の住み相な構えで、俗務を話すには極まりの悪いほど全体が静かである。
 丈夫が玄関に近いづいたとき、横手の窓の内で、水色絹の女服の姿がチラリと見えた。多分次男の話した娘二人の中の一人だろう。このチラリと見えた姿が、自分の身の後々に何の様に影響するだろうなどとは、丈夫の少しも考えない所である。

 つかつかと玄関に行き、取次の男に名刺を渡して、博士に面会したい旨を話すと、男は危ぶみつつ、
 「御在宅ですけれど、お手が離されるか何うか伺って見ましょう。それまで此方でお待ち下さい。」
と言って丈夫を控所の様な小洒(こざっ)ぱりした部屋へ通し、そうしてその身は退いた。

 ここに丈夫は五分間ほど控えて居ると、静かに戸を開け、静かに入って来た人がある。博士では無い。今の水色絹の姿である。丈夫に対して少し恥ずかしそうであるけれど、それほど気兼ねの様子も無く、云はば親類をでも迎える様な状(さま)で、丈夫の前まで歩んで来た。



次(序篇 (四)

a:157 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花