巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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 人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
  

     (序篇)四 「大津りん子」

 丈夫(じょうぶ)の前へ歩んで来た彼の令嬢は、
 「貴方が伴野丈夫さんでしょうね。」
と優しい言葉で問うた。
 「ハイ博士にお目に掛り度くて参りました。」

 令嬢は初めて眼を丈夫の顔に上げ、
 「父は今、丁度手の離せない時ですが、暫くお待ち下されーーないでしょうか。」
と少し言いにく気に問い、更に、
 「私は娘輪子です。お急ぎでしょうけれど、父の手の空くまでお待ち下さるなら、私しがーーここでーーお相手を致して居ましょう。」

 憎く無い相手である。ハテなこの女、姉だろうか。妹の方だろうか.
 その様な事を気に掛けたことの無い丈夫だけれど、何だか気に掛かる。尤も父に代わって客の相手などに出て来る所を見れば、多分姉の方だろう。

 丈夫「イヤ、それでは幾等お手間が取れても、待ち遠くは感じません。」
と世辞の無い口から世辞が出た。輪子はこの世辞に一寸と顔を紅くしたらしく丈夫に見えた。
 本当に顔を赤めた譯では無いが、赤めた様に見せたのだ。心に無い事を有る様に見せるのがこの令嬢は非常にうまい。今まで女に交際(まじわ)った事の無い丈夫は、女にその様な技量がある者とは更に思わない。

 輪子は紛らせる様に、
 「本当に仕様の無い父ですねえ。折角入(いらっ)した方を待たせて。」
 丈夫「イヤ妨げられるのを好まないのが学者の常でしょう。」
 輪子「ナニ今は学問や試験の為では無く、父の極嫌いな俗務の為なんです。銀行の人が来て居ましてね。」
と云い掛けたが、初対面の人に聞かせるべきで無いと思ったと見え、口を閉じた。銀行の人、さては彼の手形の用事だナと丈夫は少し極まり悪く思った。

 輪子は又言葉を継ぎ、
  「本当に、少しは試験室から出て来て、私共を見廻って呉れれば好いのですけれど。まるで娘の有る事さえ、何うかすると忘れて居る様ですよ。」
 仲々に人懐っこい打ち明けた質(たち)の令嬢と見える、それとも取り分けて我が身へ対し、この様に親しくするのか知らんと、多少の疑念が、真面目な丈夫の胸に動いた。

 丈夫「まさか貴女をーーーイヤ貴女がたをお忘れ成されはしないでしょう。」
 この様な美しい令嬢を、忘れようとしても忘れられる筈が有りません、と云う様な意味の積りだろうけれど、そうまでは口が廻らない。
 輪子「それですから家事向きの事柄は、何から何まで皆私しがしなければ成りません。台所の指図から買い物の見計らいまでも、私しにさせるのですもの。余りでは有りませんかねえ。」

 さては女ながらも、宛(あたか)も此の身が我が家一切の事務を監督して居る様に、この家の事一切を一人で引き受けて居ると見える。こう思うと今まで女と云う者を、何の役にも立たない様に思って居た心の土台が、すこし怪しく為って来る。それに我が身と略(ほ)ぼ似寄った重い責任の衝(しょう)に立って居るのかと思うと多少の同情も湧いて出る。

 輪子は忽(たちま)ち気が附いた様に、
 「余りお待ち遠いなら、私が伺って置いて、後で父に取次ましょうか。アアそう致しましょう。大抵の事なら、或いは又私で判断が出来るかも知れません。」
 こう云われて見れば、打ち明けないのは不躾(ぶしつけ)にも当たる。けれど仲々確かな男だから、

 「イイエ、折角の御親切では有りますが、私し一身の事では無く、多少の秘密にも渉りますから。」
と断わりの意を述べた。
 輪子「秘密にしても、父は貴方から伺った後で、直ぐに私しへ打ち明けて相談します。ですからここで私しへ仰っても、詰まりは同じ事ですよ。少しも御心配は有りませんから。」
と切に勸めるのは全く親切一方で有る様に見える。けれど丈夫はこの様な点には頑として居る。

 「私し丈の事なら、喜んでお言葉に甘えますけれど、人の事を含んで居ますから、父上より外へは、兎に角お耳に入れる事が出来ません。」
 倫子は再び少し顔を紅めた。聊か自分の出過ぎたのを恥じると云ふ体である。爾して少し考え込んで居る。其の様が如何にも尤もらしく見える。又暫くして、今度は言い訳の様な語調で、

 「此様に馴れ馴れしく申し上げて、定めし無遠慮な者と思いかも知れませんが、イイエお目に掛るのは初めてですけれど、常にお噂は次男さんから伺って、初めての方の様には思われません。ツイお友達か何かの様にお心安く思いまして。」
 丈夫は落ち着き者ながら少し慌てて、
 「イヤそれが何よりも有難いのです。」
 輪子は殆ど聞かない振りで、
 「次男さんはもうこの家を自分の家も同様にお思いですよ。大抵休日の度にはきっと遊びにお出です。」

 勿論次男が屡(しばしば)この家へ来る事は知って居る。知っては居るがこの家を我家の如く思う程に、それほど此の家から親しまれて居るかと思うと、何と無く胸が騒ぐ。今度は丈夫の方が少し顔を紅くした。輪子はそれを見て取って、自分だけに判断した。

 「ハイ大層貴女がたが御親切にして下さることを兼ねて次男に聞きました。」
と丈夫は静かに挨拶した。
 輪子「オヤ次男さんがその様に仰(おっしゃ)るのは多分、私の事では無いでしょう。貴方だから申しますが、この家の内で私しだけは余り次男さんの不断のお身持ちを褒めませんのです。」

 勿論真面目な人間が褒めえうべき身持ちでは無いのだから、丈夫はその言葉を聞いて、一層この令嬢の心を見上げた。兎に角も女には珍しく、人を人相当に値踏みする事が出来る方である。そうして自分の思う丈を言い切る勇気の有る方であると、こう二箇條の感心を呼び起こした。

 それに又、この令嬢が初めてこの部屋へ入って来た時から、丈夫は我が弟がこの家へ来るのはこの令嬢の為か知らん、それとも。もう一人の令嬢の為か知らんと異様に心に掛って居たが、今の言葉で、この令嬢の為では無い事が分かった。その分かったのが、何故か非常に嬉しい。一種の大いなる安心を得た想いである。そうして一人心ので、

 「そう無くては成らない。この令嬢の方は仲々次男などに真の値打ちの分かる様な、其んな品の低いのとは違う。」
と未だ一方の令嬢を見もしないのに思い定めた。



次(序篇 (五)

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