巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2018.5.10

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      活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

      第十回 破産した上田銀行 

 短銃(ピストル)を前に置いて考え入るとは、容易な事では無い。上田栄三は柳條の姿に驚き、周章(あわただ)しく短銃を隠そうとしたが、隠すのは返って疑われる元であると思ったらしく、テーブルの端の方に推し寄せただけだった。敢(あえ)てその上に帳面を被(かぶ)そうともしない。柳條は何となくその短銃(ピストル)に見覚えのある心地がしたが、何時何所で見た者か更に思い出さない。

 その中に栄三は今まで深く考え込んでいた陰気な顔色を隠し、非常に機嫌好く、
 「アア好く来た、柳條君、今日は多分君が来るだろうと思って居た。」
 柳「何うして私が来るだろうとお思いなさいました。それでは大方私の用向きの次第もお察しが附きましょう。」
と熱心に打ち問えば、栄三は非常に静かに、
 「そうだね、大抵推量が出来相だ。」

 此の返事は殆ど我を励ますかと疑われるばかりなので、柳條は今云わなければ云う時なしと、熱心の上に又も熱心を加え、
 「では私が以前から瀬浪嬢を愛し、今日改めて嬢を我妻に貰い受けに参った事も御存知でしょう。」

 上「そうだな、今日は多分其の事で來たのだろうと思っていた。」
 柳條は早や事が全く成就した様に打ち喜び、声までも振るわせて、
 「ではもう速やかに此の願いを叶えて下さるので御座いましょうネ。」

 上田栄三は非常に真面目になり、
 「イヤそう早まり給うな。今まで君の気質を見て居たが、今時には珍しい若者で、私も瀬浪の為に婿夫(むこ)を選べば、何うか君の様な男が欲しいと思って居るけれども、此の婚礼は思い止まって貰わなければならない。何しても出来ない事だ。何うしても出来ない事だ。」

 柳條は宛(あたか)も百雷一時に我が頭に落ち来たった様に打ち驚き、
 「エエ此の婚礼が何故出来ません。」
 上「私はーー驚き給うな、--私はもう破産した身の上だ。」
 柳「エ、破産」
 上「そうだ、今までは銀行頭取と世に立てられて居たが、此の頃の打ち続く戦争の為め、金融社会に大波瀾が起こり、私は財産を摺(す)って仕舞った。今では銀行の店を仕舞い、財産保全をしても足りない程の事となった。」

 柳「破産位が何ですか。私は貴方の財産を望む者ではありません。瀬浪嬢を愛する者です。貴方の財産が何うなろうが、私の命のある間は瀬浪嬢を愛します。破産したから婚礼が出来ないとは、私の心を知らないと云う者です。」

 上「イヤ君の心は分かって居るけれども、私は明日から何して一家を支えれば好いか、それさえも分からない程の場合に迫って居る。」
 此の事から見れば、テーブルの上の短銃も栄三の決心を知るに足りる。

 柳「何の様な場合に迫ろうが、瀬浪嬢を私しへ下さるのには差し支えはありますまい。実はもっと前から此の事を言い出し度いと思っていましたが、唯貴方が銀行頭取の身分であり、何不足なく暮らして居る故、今言い出しては、財産に目を附けると思われはしないかと、それが辛くて控えて居りました。

 貴方が其の様に零落したのは、私の真心を見せる時です。貴方の銀行が潰れるなら、私の財産を投げ込んで引き直しましょう。私は僅かながら、父から譲られた財産を持っています。」

 此の熱心なる言葉には、上田栄三も痛く心を動かした様に、深く溜息を発した末、
 「イヤその親切な言葉は有難い。私も初めから君がそう言って呉れるだろうとは思って居た。併しそでも未だ此の婚礼の出来ない訳がある。

 君は私の身の上を知らないだろうが、是は君を私の家へ連れて来て紹介した、町川友介さえ充分には知らない程だから、お前が知る筈はないーー君は世に言う中等社会の家に生まれ、貴族ではないけれど、先ず平民の中以上である。所が私はその身分が遥かに下り、平民でも極々下等の家に生まれた。」

 柳條はここまで聞き、その顔を差し延べて、人に上下の隔てなしとの事を云おうとすると、栄三は之れを押し止め、
 「先ず仕舞いまで聞きたまえ。私は下等の家に生まれても、今まで曲がった事をした覚えはないから、我が身の恥とは思わない。打ち明けて君にも話すが、私の父と云うのは聖(セント)・ニコラスの港で人足を勤め、母は大道で果物を売って居た。この様な父母だから、勿論私を学校に入れる事も出来ず、私は十二の時まで、ABCも知らない悪戯者(いたずらもの)であった。

 十二の時初めて銀行へ奉公に行き、勤めて居る中に革命の戦いが起こり、その間に色々品物の値が上がり下がりをしたことに依り、安い物を買い入れて高い時に売り、意外な儲(もう)けばかり打ち続いて、私立銀行を開く迄の身の上となり、一頃は二百万フラン以上の財産も作ったが、今は又戦争の為に損ばかり打ち続き、世を渡れない事になった。

 それも好いとして、私の父はその頃、武士の跋扈(ばっこ)《のさばる》する時で、ニコラスの橋の上で少しの事から兵隊に切り殺され、母は又不幸にも或公園で貴族の乗って居る馬に蹴られ、大怪我が元となって間も無く冥界(あのよ)の人となった。それから此の方、私は貴族と言う者が大嫌いになり、国に貴族のない様にし度と思い、共和党に賛成する次第だが。」
と云い来たる言葉は、総て真心より湧き出ている。之を聞く柳條健児も我知らず拳を握り、

 「貴族を憎む事は勿論私しも同感です。」
と明確に言った。



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