巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2018.5.11

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      活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

      第十一回  馬平侯爵の預け金

 「貴族を憎むのは私も同感です。」
との柳條の言葉を聞き、上田栄三は頷(うなず)いて、
 「そうだ、君も矢張り貴族を憎んでいるから、私が今まで交際したのだ。若し貴族を羨やむ様な浅墓な根性なら、初めから交際はしない。それ此の通り、私は固く人間の同等と云う事を信じて居るから、自分で妻を持つ時も、矢張り自分と同じ貧家の娘を貰った。

 ところがその女房は今の瀬浪を産んだ時、難産で死んで仕舞い、夫れからと云うものは、唯瀬浪に同等の婿夫(むこ)を持たせるのが楽しみで、今まで先ず育て上げた。この様な訳だから、身分の違う者を瀬浪の婿夫(むこ)には出来ない。」

 柳「でも私は嬢と身分は違いません。とりわけ婚礼の事に就いては、互いの愛情さえ同じことなら、それで同等と云う者です。」
 上「そうはいかない。第一財産も不釣合いで、嬢は今にも貧民になる身だから。」

 柳「でも貴方は、今までは嬢の方が私より財産が多く、詰まり不同等であったのに、貴方は別に私を退けもせず、今は私の方が多くなったからと云って直ぐに不釣合いだと仰るのは。」
 上「イヤそうではない。今までは私も充分な財産を持って居たから、君を私の組合人として、この銀行を二人の所有にして、それで両方の身分を同等にする積りであったが、銀行の潰れる今日と為っては。」

 柳「ナニ今日と為っても同じ事です。私を組合人にして頂きましょう。組合人となって私の財産を此の銀行に使いましょう。」
 上「爾(そう)は出来ない。今更君を組合人にしては、貧の谷底へ引き摺り込む様な者だ。

  柳「それで私は構いません。共に貧しい身となれば、貧しいながらも同等です。私は貴方が貧しい所から仕上がった様に、嬢と二人で又貧しい所から稼ぎ上げ、此の銀行を立て直します。」
 上「イヤ今更何と云っても了(い)けない。もう潰れるのに極まった者をーーー。」

 柳「ナニ未だ爾(そう)は極まりません。貴方は明日にも潰れる様に仰るけれど、真逆(まさか)それほどではありません。」
 上「それほどでない事が何うして分かる。」
 柳「分かりますとも。貴方の顔色で分かります。顔色を見て、心の中を彼是と推量するのは、失礼かも知れませんが、私は今まで嬢を愛し、貴方の一言で自分の身の上が定まりますから、丁度死刑を受ける罪人が、判事の顔色を読む様に、思わず知らず貴方の顔色を読んで居ました。

 貴方が困難に陥ったのは、ツイ此頃の事ですから、未だ取返しの附かない程ではありません。」
と真実の親切に、誰が心を動かさないで居られよう。心腸、石より堅い栄三も、非常に感じるところがあった様で、殆んど涙に湿(潤うる)む声で、

 「イヤ爾(そう)まで云って呉れるのは、実に有難い。私はもう誰一人慰めて呉れる者はなし。迚(とて)も生きて居る張り合いも無いとまで失望したが。」
と云い来たりて、知らず知らず件(くだん)の短銃に目を注ぎ、君がその様に云って呉れるので、仮令(たと)え此の銀行を持ち直す事が出来ない迄も、私の失望だけは消えて仕舞った。」
と云うのは自殺を思い止(とど)まった心に違いない。

 柳條もその意を察し、
 「貴方は瀬浪嬢の唯一人の父ですもの、今貴方が失望して恐ろしい決心を起こせば、嬢の身を何うします。」
と励ました。栄三は茲(ここ)に至って静かに短銃を取り、之をテーブルの抽斗(ひきだし)に納めながら、

 「イヤ一時は何しても仕方がないと思い詰めて見た者の、君に慰められて、又考え直して見れば、思った程の事でもない。序(ついで)だから話して聞かせるが、実は打ち続く不景気の為に、銀行の財産は悉(ことごと)く失(なく)して仕舞い、今漸く残って居るのは、此の弗箱(どるばこ)に或る金ばかりだ。此の金がある中は商売が続くけれど、実は是が或人の預け金で、近々の中に返さなければならない。之を返せば営業を続ける事は出来ない訳でーーー。」

 柳「では何でしょう。外からその預け金だけの金を借り、その金を以て預け主の片を附ければ、弗箱の金は手付かずに残るから、銀行は今まで通り立って行きましょう。」
 上「それは固(もと)より立って行くさ。けれども信用の次第に衰えている今の時節に、金を借りては益々信用を落とす丈だ。」

 柳「ナニ誰も知らない所に貸し手があれば好いのでしょう。」
 上「何うしてその様な貸し手が」
 柳「イヤ有ります。確かにあります。」
 上「と云うのは君の事だろう。君が自分の財産を此の銀行に入れ様と云うのだろう。」

 星を指されて柳條は猶予せず、
 「ハイ爾(そう)です。私が是ほど迄に云う者を、それも否とは仰らないでしょう。爾(そ)う仰るのは余りの事です。友人の親切を無にすると云う者です。ハイ私の財産を此の銀行へ入れましょう。入れて銀行の組合人となり、時局の恢復を計りましょう。」
と云って更に様々に励ますに、流石の栄三も柳條が必死の言葉を拒み得ず、良(やや)久しく無言にて考えた末、漸くに顔を上げて、

 「イヤ君の言葉に従がおう。」
と承知した。柳條は殆ど嬉しさに飛び上がり、
 「それは実に有難い。では今日から私は組合人ですから、及ばず乍ら力を合わせ、此の不景気を相手にして力の続く丈戦いましょう。」
 上「戦おう。併しそれに就いては、荒方話して置かなければならないが、実の所、その預け金と云うのは、一年間の約束で、昨年の九月十一日に預かったので、即ち今から七十日経てば、返さなければ成らない。」

 柳「七十日なら未だ大丈夫です。少しながら私には親から譲(ゆず)られて、財産もあり、それを売って金にしても七十日は掛かりません。」
 上「それでその預け主と云うのが変な人で、君が聞けば怪しむだらうが、実は貴族だよ。」

 柳「エ、貴族が貴族嫌いの此の銀行へ。」
 上「爾(そう)サ、お前も知って居るだろう。貴族中で
も最も評判のある馬平侯爵で。」
 柳「馬平侯爵なら知って居ます。立派な男で年が三十恰好の。」
 上「爾々(そうそう)、所が後で好く好く考えて見ると、此の金が尋常な預金ではなく、実は深い目的があって私を網に罹(かけ)る積りで預けたのだ。」

 柳「深い目的とは。」
 上「斯(こう)サ。驚きたもうな。此の金を私に預け否応なしに瀬浪を自分の妻にする積りでサア。」
 憎き馬平侯爵よな。金の威光を以て我愛する瀬浪嬢を奪わんとして斯(か)かる金を預けたのか。預けて上田栄三を苦しめているのか。柳條は聞くやいなや、火ッと迫込(せきこ)んだ。



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