ikijigoku12
活地獄(いきじごく) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2018.5.12
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第十二回 預け金は三十五万フラン
馬平侯爵が瀬浪嬢を望むと聞き、柳條は殆ど顔の色を変え、
「それで貴方は承知したのですか。」
上田栄三は落ち着いて、
「ナニ私が承知する者か。承知しなければこそ、此の通り苦労するので、全体初めから侯爵の底意が分かって居れば、預かりはしないけれど、爾(そう)とは知らず預った後、三月も経って侯爵が瀬浪の事を言い出した。その時は早や此の銀行が傾き掛かり、それだけの金が調(ととの)わない仕儀になって居た。」
柳「その後も侯爵は度々来ますか。」
上「私が佶(き)っぱりと断ったけれど、未だ来る事は来るよ。併し私は唯金子の預け主と云う積りで、当たり前に持て遇(な)す丈で、初めから瀬浪の顔も見せない。聞けば何でも瀬浪が教会堂へ行く時に、折々来て居ると言う事だ。ナアニもう私の了見が極まったから心配する事はない。」
柳「初めから心配は致しませんがーーー。」
上「サア心配がなければ、是から又元の相談に返る事として、、第一侯爵から預かった金の高はーーー。」
と云って、茲(ここ)に初めて金額云おうとする折しも、廊下の外に、非常に優しい声して、
「阿父(おとっ)さん入って好う御座いますか。」
と聞こえたが、声の下より静かに戸を開いて入って来たのは瀬浪嬢である。今年十九との事であるが、大事に育てられただけあって、婀娜(あどけ)ないその姿は、譬(たと)えるに物がない。嬢は柳條が茲(ここ)に居るのを知らない振りして、その儘(まま)父の身にすがり附き、
「毎日十回宛(づつ)阿父さんの顔を見る事に決めているのに、今日は未だ四回しか見てませんよ。」
と云って、父の額に愛らしく喫(キス)をしようとする。栄三は静かに推し退け、
「是れ、人様に挨拶もせずーー。」
と云われて嬢は、初めて気が附いた様に此方(こちら)に向き、
「オヤ柳條さん、貴方とは知らず先ア何うしたら。」
と言い掛けて、ポッとその顔を赤くすれば、柳條も何とか云おうとしたが、言葉が容易に口に出て来ない。人と闘って臆することを知らない柳條であるが、我が愛する嬢の前では、後れを取る事が多いと見える。
この様な折しも、又も軽く入口の戸を叩く者あり。三人一様に振り向けば、早や戸を開いて入って来た一人の紳士。丈高くして色白く、頬の当たりに立派な髭髯(ひげ)を置き、威風堂々として乱れないのは、是こそ馬平侯爵である。柳條は既にその顔を見知るのみか、前から貴族を憎む心が強く、更には此の人こそ我恋の敵と思うと、胸の中自ずから燃え上がり、鋭い眼付でその顔を睨み詰めた。
侯爵は未だ柳條の顔を知らないが、此の所の有様で、是ぞ栄三の見立てに預かった婿夫(むこ)に違いないと見て取ったか、未だ栄三に挨拶もせず、同じくその顔を佶(きっ)と見詰める。此の儘(まま)に捨て置いたならば、二人は必ず攫(つか)み合うことにも至るに違いない。栄三はそうと見て、先ず嬢に向かい、
「コレお前の居る所ではない。」
と云うと、嬢もその意を察してか、馬平侯爵には見向きもせず、ただ柳條の顔に意味あり気な眼を注ぎ、我が来た入口から匆々(そうそう)に出て去った。
凡そ巴里の女ほど、眼を使うのに巧みなものはなく、幾百年来社交界で研(みが)き上げ、自ずと得た妙用の遺伝とは云え、人にその心を悟らしめるは、遥かに唖者の手真似(てまね)に勝(まさ)っている。今嬢が柳條に注いだ眼の意味は、貴方その様な馬鹿貴族と喧嘩なさるな。」
と云う如くである。
柳條は之を見て心に歓び、侯爵は之を見て益々機嫌を損じたのは、二人とも好く美人の心を読むことが出来た者と云うべきか。栄三は非常に愛想ない言葉で、先ず侯爵に向かい、
「お出でなさったのは、定めし何かの御用事でありましょうが、先ず是へお掛けなさって。」
と傍(かた)への椅子を差し出す。
侯爵「イヤ別に用事でもないが、昨夜実は外国から帰ったものですから、旧来の交際を温め度く。」
上「エ、旧来の交際、アノ預け金の一条ですか。アレはーーー。」
侯爵「イヤその様な事業上の交際ではないけれど、私が今来たのは時が悪かったと云う者だ。瀬浪嬢まで挨拶もせずに立ち去った所を見れば。」
と十分に嫌味を含んだ言葉も、栄三は軽く受け、
「イヤ嬢には金銭上の話を聞かせ度くありませんから、退けました。是に居るのは此度私の組合人となった男ですから、お構えなく御用の次第を伺いましょう。」
侯爵「ナニ用事の何のと、その様な積りではないが。」
と云い掛けて又柳條を眺め、
「アア是が組合人か。私は又爾(そう)とは知らずに。」
曖昧なる此の一言は、深く柳條の癇癪に障ったので、柳條は横合いから、
「私が茲(ここ)に居るのを邪魔だと仰(おっしゃ)るか。」
侯爵「イヤ邪魔ではありません。」
栄三は早く此の侯爵を追い遣ろうと思うので、
「では私から申し上げます。兼ねてのお預け金は、来る九月の十一日が返済の期限で、私はその日を覚えて居ますから、御心配には及びません。」
貴族の身として是ほどまでの冷遇を受け、何うして永居ができようぞ。
侯爵はムッとした様子で、
「宜しい、それでは九月の十一日に、必ず受取人を寄越しますから、その積りで。」
と言い捨てて荒々しく立ち去った。柳條はその後影を見て、
「失敬な奴だ。」
と呟くと、栄三は之を宥(なだ)め、先ず預かり金の方が済む迄仕方がない。彼を大目に見て置くサ。君は彼等の横柄なる挙動(ふるまい)を見て。定めし決闘して殺してしまいたいと思うだろうが、吾々愛国者が、彼等の腐った命と我々の貴重な命と取り替えるのは、愚の到りだ。国の為には何の様な手段を用いるも厭わないから、決闘は止して、匕首(あいくち)を用いるサ。匕首を。」
匕首とは闇討ちの事なので、柳條は栄三の言葉と、先の夜聞いた秘密党大主領の言葉と、甚だ好く似ているのに驚き、思はずもその目を見張ったが、当時の共和党賛成者が、此の様な言葉を用いるのは珍しくは無い。
とりわけ栄三は、以前から共和党中に於いても、熱心家と町川より聞いていたので、柳條も深くは怪しまない。しかしながら栄三自らも、我が言葉の過激なのに驚いたか、忽ち調子を柔らげて、
「併しその様な事は、何でも好いとして、扨(さ)て先刻言い掛けた預かり金の高は、元利合わせて三十五万法(フラン)《現在の日本円で約5億円》だがーー。」
柳條は之を聞いて悸(ギョ)ッとしつ、
「エ、三十五万フラン」
と思はず仰天の声を洩らすと、栄三は気の毒そうに、
「イヤ、初めから此の高を言はずに話したのは、私が悪かった。是ほどの金高は、誰の手にも容易には間に合わないから、君が驚くのも無理はない、
君の手に合ないと有体に言いたまえ。言ったとしても恥ではなく、又君の心は既に分かって居るから、私は有体に言って呉れるのを返って有難いと思うよ。」
抑(そもそ)も柳條が父から受けた財産と云うのは、銀行に預けてある正金僅(わずか)かに六万法(フラン)と、年々千二百法の収納ある田舎の地面のみであるので、三十五万法の大金が、何の様にして我が手に負えるだろうか。だからと言って、その高を聞いた後で、出来ないとは云わはれもせず、
「イヤ私は思ったより多いので驚いたが、ナニそれが出来ないと云う訳はありません。二カ月の猶予が有りますから、その中に田舎の地面を売れば。」
上「でも此の不景気で地面も中々売れ難(に)くいて。」
柳「ナニ郷里の近村(となりむら)に、前から私の地面を所望して居る大家がありますから。」
と事もなさそうにその場を言い繕ったので、栄三は柳條の財産を知らないので、果ては此の言葉を充分な者と思い、更に様々と後の事などを相談し、日の暮れ前に柳條は分かれを告げた。
参考
何を基準にするかによって当時の1フランの日本円の値は大きく異なる。
注;19世紀後半(1850年から1900年)の1フランと現在の日本円 (金貨からの換算)
2018年7月10日の金1gの値段=4,897円(田中金属工業)
当時の金貨1フラン当たりは322.58mg(金貨)
金貨の品位900
これ等より
1フランの値段=0.32258g×0.9×4897円=1421.7円
19世紀の200万フラン=現在の日本円換算200万フラン×1421.7円=28.4億円
35万フラン=5億円
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