巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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     活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

     第二十一回 怪しい男 

 栗山角三は、頓(やが)て非役陸軍士官の身姿(みなり)に、扮装し終わった。その服は平服であるが、流石に昔探偵の名人と云われただけあって、誰の目にも偽士官とは思われない。近所の人に見られても、面白くないので、夜の明けないうちに家を出て、其所彼所(そこかしこ)と散歩する中、漸(ようや)く七時半頃となったので、徐々(そろそろ)と中央郵便局の待合所へと入って行くと、此の頃は戦争の為め、人々は自分の住居が定まらない時だったので、郵便局留め置きの手紙を受け取りに来る事が多く、それに未だ事務を始め前のため、十余人もここに集まった。

 その中に二人だけ女も見えたが、角三は一目でその女が今井兼女では無いのを知った。稍々(やや)あって、八時になると入って来る人が益々多くなり、その中には女も少なくない。角三は受付の横手に陣を取り、一人も見逃すものかと、油断なく見張るうち、早や九時を過ぎ、九時半に垂(なんなん)としたが、今井兼女は今もって来ないのは何故だろう。

 都合があって、今日は見合わせとしたのだろうか。エンフア街に籠込(とじこめ)てある柳條が事も気に掛かるので、昼まで待って来ない時は、明日また改めて来る外はないと、この様に思案を定めてから、又も二十分ほど経った頃、手を引き合って入って来る一組の男女があった。

 女は年二十二、三くらいで、男は二十一、二の若者である。今井兼女は、必ず四十以上の女なので、此の女で無い事は必然だが、之に従がっている若者が、一直線に受付口を見る様子で、キョロキョロと我が方を見る様が怪しかったので、探偵の癖として私(ひそか)に此の二人に眼を注ぐと、男は女に手を引かれるのを、恥ずかしいと思う様に手を振り放して、独り隅の方の椅子に腰を掛け、首を垂れて自分の足許を眺め詰めるばかりだった。

 女は酒々(しゃあしゃあ)として受付所に進み出、事務員に向かって、
 「今日は未だ、私へ宛てた手紙は来て居ませんか。」
と問う。事務員は首を出して、
 「私では分からん。名前は何と云う。」
 女「今井兼女と云うのです。」

 今井兼女と聞くやいなや、角三は飛び上がり、女の顔を充分に眺めると、初め我が見て取った様に、僅(わず)かに二十歳を越えたばかりで、真の今井兼女では無い。それにその身形(みなり)を察すれば、何所かの店にか雇われて、内職にその日を送る、浮わついた御転婆者(おてんば)である。

 それにしても今井兼女が、手紙を求めるのは何故であろうか。扨(さ)ては此の女、真の今井兼女に頼まれ、兼女の代理となって来た者に相違ない。そうだとすれば、此の女の後を尾(つ)けて行けば、自ずと兼女の居所も分かる筈である。

 角三は少しの間にこの様に思案を定め、更に女の方を眺めて見て居ると、事務員は彼是(あれこれ)と郵便箱を探した末、
 「イヤ今井兼女へ宛てた手紙は未だ来て居ない。」
 女「今井の「い」の部を探さずに、念の為「兼」の「か」の部を探して下さい。」

 事「イヤそれも早や探したけれど、未だ来て居ない。」
 女は大きな声で、
 「オヤオヤ昨日も無駄足して、今日も又無駄足か。それではまた明日来ますから、大事にして取って置いてお呉(くん)なさいよ。」
と云いながら、連れの男の方に行き、何やら囁(ささや)いた末、又も手を取って立ち去ろうとする。

 角三は、合点の行かない所も無いでは無いが、兎も角もこの女を尾行して行く外はないと、続いて郵便局を出て見ると、二人は早や十間ほど先に在った。女は頻(しき)りに男に向かって話し掛けて居たが、男はこの様な女と共に歩むのも五月蝿いと云う風で、女の言葉に返事もせず、知らぬ顔で傍(わき)を向いた。

 この様に親密でもない男が、何故女に従って来たのだろう。是も疑いの種であるが、偶々(たまたま)道で出逢ったまま、断り切れずに連れ立って来た者と思えば、怪しむにも足らず。しかしながら唯怪しいのは、男の歩み方だ。

 前からその姿を見た時は、二十一、二の小男と思われたのに、今は背後から見て見ると、彼れは決して小男では無い。充分背が高い男であるのに、殊更(ことさら)に首を縮(ちぢ)め、胴を縮めて小男の様に見せ掛けて居る様だ。

 その足の踏み方も、自然の踏み方では無い。窮屈な想いをして、小男の歩みを真似して居るのだ。怪しめば怪しむだけ、益々怪しく、道を一角曲がる度に、彼の背丈は次第に延び、十余町《1kmちょっと》行った頃は、伸び切って五尺六、七寸《170センチから173センチ》の男になった。

 角三は、我心の迷いではないかと、眼を開いて眺めたが、全く迷いでは無い。初め郵便局に入って来た時の姿とは、全くの別人の様であり、油断のならない男に違いないと、之から一層気を〆て進むうち、二人は或町の手袋屋の前に至った。

 ここで女は男に分かれ、その店に入ったので、買い物の為であるかと思ったが、そうでは無かった。この店に雇われて、手袋を製する女工の一人と見え、一方の椅子に腰を下ろし、外の女工と親しそうに話しを始めた。その様子を見れば、非常なお多弁(しゃべ)りである。

 今井兼女は、非常に用心深い女と思って居たのに、この様な口軽い少女に、大事を頼むのは何故だろう。それとも今井兼女が頼んだのは、彼の男の方で、この女は唯彼(あ)の男に、従(つい)て行った迄なのだろうか。

 角三はここに至って、殆ど思案に迷った。女か男か、何方(どちら)が兼女の代人なのだろうか。兎に角も女はこの店の雇人に相違ないので、何時でも捕らえる事が出来る。是からは男の方を尾けて行くのが好さそうだと、その店の番地を充分に呑み込み、更に男の方を見ると、男は早や半町(約50m)ほど先に在った。

 一方の店先に立ち、頻(しき)りと又女工を戯(からか)う様子なのは、我れに後を尾(つ)けられて居ることを知らないのだろうか。それとも既にそれと悟り、横に向いて女に戯(からかわ)れる振りをして、その実、我が方を偸(ぬす)み見て居るのだろうか。

 何方(どちら)にしても、素性の分からない男であると、角三は呟(つぶや)きながら追って行った。



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