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ikijigoku29

活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2018.5.29

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   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

   第二十九回 百万フランの約定書 

 澤子に手を引かれ、離れ座敷を出て来た柳條の有様を見れば、凡そ一月ほどの養生に傷も癒え、力も常に復(かえ)ったけれど、唯心の中にはまだ癒えない痛みがあると見え、片手は澤子に預けながらも、澤子の方には眼を注がず、下向いて何事をか考える様子である。栗山角三は是を見て、

 「先日出した手紙を三通まで、俺が握り殺し、先方からその返事が来ない者だから、それでアノ様に心配して居るのだ。」
と呟(つぶや)きながら棒田夫人の傍を離れ、柳條の方へと進んで行った。
 「何うです。柳條君、もう澤子に手を引かれなくても、充分に歩く事が出来そうですネ。」
と云う。

 角三の腹の裡(うち)は、是で柳條の心を澤子の方に向け、澤子の美しさに気を留めさせようとの工夫に違いない。柳條はこの声に驚いて、
 「イヤ浮か浮かとツイ澤子さんのお手を借りて居ました。」
と云いながら、その手を引けば、澤子は父を白眼(にら)み、
 「ソレ御覧なさい。阿父(おとう)さんが余計な事を仰るから、柳條さんが手をお引きなさったじゃありませんか。私は柳條さんのお手なら、何時まで取って居ても重いとは思いませんよ。」

 意外な結果を起こしたので角三は周章(あわて)返って、
 「イヤそう云う訳ではない。柳條さんのお手なら、何時まで引いていても好いけれど、実は少しお話があるので。」

 澤「お話なら後になさい。今まで絵姿を画く為に、柳條さんは二時間も座り詰ですから。是から少し私と散歩するのです。気を詰めた後で、又阿父さんの陰気な話を聞いては保養になりません。」
と容赦なく我が父を遣り込めようとするのは、今まで長く女学校に入り切りで、家庭の教訓(しつけ)《躾》の無いが為に違いない。

 柳條は之を聞き、澤子の傍を離れる好機会と思ったか、
 「イヤ、話しとあらば何時でも聞きましょう。」
と云った。角三は更に澤子に向かい、
 「三十分か一時間の話だから、和女(そなた)は居間に待って居るが好い。」
 澤子はツンと怒り、

 「彼方へ行けと云うなら行きますよ。」
と云い捨てて荒々しく棒田夫人の方へと走り去った。角三はその後を見送って、
 「何うも世間知らずで、少しの事にもツンツンして仕方がないけれども、ナニ所天(おっと)を持てば、打って更(かわ)って柔和(おとな)しくなる者だ」
と遠回しに弁護しながら、柳條を連れて塀の傍の緑陰深い所に行き、備えてある腰掛に腰を卸(おろ)して、

 「ですが若(も)し、話の中に少しでも疲労を感ずる様な事があれば、直ぐに話を止(よ)しましょう。未だお身体が充分ではありませんから。」
と奇特《殊勝》な病人に云う様な前置きは、全く柳條を永く留め置こうという下心に違いない。

 柳「イヤ一月ばかり御厄介になったお陰で、もう平生の通りです。この分ならば今日でもこの家を立ち去って、我宿へ帰る事が出来ましょう。」
 我が宿へ帰るとの一言に、角三は顔色を変え、
 「エ、貴方はその様な事をお考えですか。」

 柳「そうです。四五日前からそう思って居ますが。」
 角「それは飛んでもない。棒田夫人の見立てでは、猶(ま)だ三週間は外出出来ないと云います。夫人はもう此の様な事には慣れて居るから、夫人の云う事は確かです。」

 柳「イヤ夫人は折角自分の手際で、元の体にして下さったから、大事の上に大事を取り、その様に仰りましょうが。」
 角「イヤそればかりではない。前から話す通り、その筋で何か貴方に国事犯の嫌疑があって、探偵が中々厳重ですから。イヤそれは最(も)う事実です。決して軽々しく外出なさる時ではありません。」
と熱心に説き立てる。

 これは唯一時を誤魔化すための作り事では無い。角三は先日郵便局で、今井兼女への手紙を求めようとする、怪しい男があるのを見て、その後可能な限り、彼(あ)の男の身分を探ったところ、警視総監直轄の国事探偵と分かったので、さては彼、何のようにしてか、柳條の昔の乳母、今井兼女が露国から帰って来たのを知り、

 必ず柳條と手紙の遣り取りがあるに違いないと思ったことから、柳條の有り家を探がす爲、柳條から兼女への手紙を手に入れ様とする者に違いないとこう思ったもので、彼の男が同じ二百万法(フラン)を附け狙う我が敵だとはまだ知らず、唯柳條が身に国事犯の嫌疑掛かっている者と思って居るのだ。

 柳條も秘密党の事と云い、随分その筋から嫌疑を受け兼ねない身分なので、角三の言葉を聞き、暫し無言で考えた末、
 「先ず我が宿へ帰る帰らぬは、重ねての相談とし、貴方の話とは何事です。」
と丁寧に問うた。この様に丁寧な言葉を掛けのるも、全く今まで一方ならない介抱を受けた、その親切に免じての事に違いない。

 角「前からお話の約定(やくじょう)の一件ですが、約定書は既に双方とも満足の出来る様、私が認めてありますから、その端へ貴方が自筆で名前だけ記して下されば好いのです。」
と云いつつ、早や携えている墨筆を腰掛の上に置いた。

 柳「約定とは遺言書が手に入り、愈々(いよいよ)相続すれば百万法(フラン)渡せと云うのですネ。」
 角「そうです、百万法は随分高い様ですが、勿論貴方にも百万法は入る事だし、それにこの遺言書を探す為には、自分で露国を初めその外の地方へも旅行し、金子も遣い心配もした事で。」

 柳條はこの空々しい言葉を好まず、少し賎(いや)しむ調子で、
 「では何ですネ。貴方は兼ねてから、古澤金満中佐の遺産を半分だけ手に入れる積りで、露国まで探しに行ったのですネ。」

 角「イヤそう云う欲心ではありません。実は商売用で露国へ行った時、フととしたことから、その遺言書が或人の手に残って居ると云う事を聞き出し、それでは何うか正当の相続人に知らせて遣りたい者だと、半分は先ず親切の心から、貴方の行方も探し又実際にその遺言書の実否をも探り、辛苦を重ねた上ヤッとここまで運び附けたのです。

 それもナニ私一身なら幾等幾等分けて呉れなどと、その様な卑劣な事は云いません。所が実際のお話がーーーもうこうなったらからは打ち明けますが、---露国(ロシア)人です。露国人がその遺言書を持って居るのです。それが即ち金満中佐の死んだ時、同じ病院に居た露国(ロシア)の陸軍士官で恐ろしい欲張った奴サ。叔父御はそうとも知らず、この人に托せば必ず貴方の手に渡るだろうと、死に際になって委細をその人に話した所、その人も心よく引き受けたが、後で欲心が出て、大金を呉れなければその遺言書を渡さないと云うのです。

 渡さないのみか、貴方の従弟鳥村槇四郎へ売り渡すと云うのです。鳥村へ売られては大変だから、私が貴方の方へ取って遣ろうと云うのです。それを取るには、その士官へ大金を遣らなければならず、それだから貴方に百万法だけ分けて呉れと云うのです。貴方がウンと云って調印すれば、私は直ぐに大金を持って露国へ飛んで行き、その士官に逢って大金と引き換えに遺言書を受け取って来るのです。」

と言葉巧みに説き附けたので、柳條も悉(ことごと)くその言葉を信じる訳ではないが、我が手に落とさなければ、不正なる鳥村の手に落ちるに違いないと、それや是やを考えた末、終に角三の言葉に従い約定書に調印して渡したが、この時塀の外から何者か石を投げる者があった。庭木の梢を鳴らして、その石が丁度柳條の足許へ落ちて来た。

 角三は、
 「オヤオヤ誰か石を投げて来た。イヤ石に紙切れが巻いてある。」
と云いながら、素ばしこく身を屈めて、その石を拾い上げようとする。嗚呼この石に何んな意味があるのだろう。読者は大方は察したに違いない。



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