巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

   第六十五回 柳條の釈放
 
  瀬浪かと思って戸を開いたところ、意外にも馬平侯爵だったので、扨(さ)ては今日こそ大金返済の期限になったので、銀行の開ける時間を待ち兼ねて、早や催促に来たかと栄三は驚き、且つ怒った。しかしながら侯爵は催促に来たのでは無く、実は先の日、伊蘇普(イソフ)に向かって約束した様に、瀬浪嬢への返事を持って来たのだった。

 非常に貴族を忌み嫌う栄三の目から見れば、馬平侯爵は最も憎むべき人の様に思われるが、当時社交界で飛ぶ鳥を落とすほど持て囃された人なので、満更人情を知らない人では無い。先の日伊蘇普の口から、瀬浪嬢が柳條を助けて呉れと願っている旨を聞いてから、痛く失望し、瀬浪は到底我が物に非(あら)ずして、柳條の物であると思い、妬(ねたま)しさ、悔しさの念、殆ど止み難(がた)かったが、妬(ねた)ましいと言って、その妬ましさを現わして、執念(しゅうねん)深く仇するのは紳士の作法では無い。

 男らしく思い切って、我が心の潔ぎ良さを示し、我が敵にも恩を施す君子の所為を現わすことは、我が敗北を償(つぐな)う好手段であると、流石に天晴な決心を起したので、直ぐに柳條を救うべき手筈を運び、飽くまでも我が胸中の寛大なことを示そうと、今ここに入って来たのだ。

 栄三はそうとは知らないので、怒る心を制すことが出来ずに口に発し、
 「分かりました。早々と催促に入(いら)っして宜しい。ご安心なさいまし。貴方の推量する通り、此の栄三は返すべき大金の一部を使い込み、今ここで耳を揃えて返す事も出来なくなり、貴方に対して頭を下げなければならない人となりました。頭を下げても我が娘は娘です。売り物でありません。」
と留度もなく罵(ののし)ろうとする。

 侯爵は礼こそ云われても、罵(ののし)られるとは思いもしなかったので、意外に思い、暫(しば)し呆れて栄三の顔を見詰めるばかりであったが、漸くその意を悟ってか、
 「イヤ上田さん、貴方は重なる心配に追い立てられて、その様な事を云うのです。私は催促に来たのでは有りません。その証拠は既に此の銀行の預かり証書を、焼き捨てた事で分かりましょう。」

 栄「若し焼き捨てたなら、恩を以って此の栄三を搦(から)めとるためです。その伝には乗りません。預かり証書を焼き捨てても、商人は手許に在る帳面に対して義務を負います。帳面の文字が消えない中は、貴方は私の債主です。証書を焼いても何の恩にもなりません。」
と言って益々荒れ出そうとする所へ、侯爵の後を潜(くぐ)り又も現れて来た一人の男があった。

 栄三はその顔を見て打ち驚き、
 「ヤヤ柳條君か。お前が何して。」
 柳「馬平侯爵の骨折りで、無罪の身となり、牢屋から出されました。」
 栄「何だと此の馬平侯爵の。」
 柳「ハイ此の馬平侯爵です。侯爵は我々の恩人です。貴方はもう侯爵に対する敵意をお捨てなさい。」

  栄三は頑固ではあるが、義理恩愛を解せない人では無い。秘密党たるの嫌疑を受けたからは、到底助かるべき見込みなしと思っていた柳條が、侯爵の為に助けられたとあっては、如何してその恩を謝するに猶予しよう。直ぐに侯爵の差し延べる手先を握った。

 生まれて五十余年間、貴族の手を握ったのは、今が実に初めてである。侯爵は非常に満足の体で、
 「イヤ私の心が貴方に通じたのは何よりの幸いです。お二人とも色々お話しも有りましょうから私は是にて。」
と早速切り上げて別れを告げ、後をも見ずに帰り去ったのは、長居して礼を云わせるのが気の毒であるとの、紳士の掛け引きだと云うことが出来る。

 ここに到(いた)って栄三も殆ど自殺の決心を打ち忘れ、
 「先ず聞き給え。柳條、お前は仏国第一等の金満家になっているぜ。」
と言って、お梅の持っていたピストルの筒から、不思議にも遺言書が出て来た事を語ると、柳條は栄三が再び自殺しようと構えたことを察し、驚くやら歓ぶやら、その有様は唯読む人の推量に任せるのみ。アアここに至って唯一人哀れむべきは烈女お梅である。

 此の記事をして若し小説ならしめば悪人亡んで善人栄えるの規則に従い、お梅は不思議にも助かって、此の所へ柳條を尋ねて来る所であるが、真実の話は小説ほど都合よく行き難い。お梅は全く活埋(いきう)めにせられ、既に門苫取(モンマルトル)の丘の土となり終ったので、その遺身(かたみ)は唯二挺の短銃あるのみ。

 お梅の様な不幸な者は又と無いだろう。訳者もその身の上に思いを馳せる毎に、潜然(さめざめ)として血涙が落ちない時は無い。しかしながら後に到って、柳條健児は上田栄三、町川友介等と共に碑を立て、此の烈女を祭ったと云えば、亡魂既に天国に上ったのに違いない。

 この様にして栄三も自殺の心を翻(ひるが)えした。その組合人柳條が、金満中佐の相続人となった事が、その頃の噂となり、今まで融通の就かなかった上田銀行も、忽(たちま)ち非常な信用を得、九月の末に閉店と決したその衰運を挽回し、一、二を争う裕福な銀行となり、上田及び柳條銀行と看板を書き替えた。

 此の余の事は読者の推量で分かるだろうが、念の為に掻い摘んで記すと、柳條は町川友介を再びペリゴーへ遣わし、お兼を牢から救い出そうとすると、兼女は元々罪ある者では無かったので、直ちにその目的を達し、町川に連れられて巴里に上り、柳條と瀬浪との婚礼の席にも列なり、引き続いて金満紳士柳條家の老女となった。

 健児瀬浪の夫婦は非常に幸福に世を送ったが、幸福の人には奇談は無い。奇談なければ此の上に記すべき事も無い。乞食の児伊蘇普は後に町川が家の支配人となり、終にその店の後嗣(あとつぎ)となった。

 栗山角三の娘澤子は如何なっただろう。父が行方知れずになったが、柳條を我が手から失ったほどには嘆かなかった。
 柳條が瀬浪嬢の所天(おっと)となったと聞き、非常に失望し、世を果かなんで尼となったか。否否女俳優と成ったとの事だ。

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