kettounohate14
決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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決闘の果 ボアゴベ作 涙香小史 訳述
第十四回 言い出せない二人
何不自由ない春村夫人が、自分の大財産を嘆(かこ)つとは非常に不思議な事なので、大谷が熱心に怪しみ問うのも無理はない。
「エ、貴女の身分で残念に思う事が有ると言えば、そうですね、それは必ず恋と言う字に関係する事件ですネ。恋には何不自由の無い人々でも、病気に成るほど心を痛める事が有ります。
日頃恋知らずと名乗っている貴女が、男を見初めて苦労するとは可笑しい様で可笑しくも有りません。この様に申す私でさえも、何時又何の様な事で、愛情の奴隷と成らないとも言えませんから。」
夫人は片頬に笑いを含み、
「何ですね。私が男などを見初めますものか。若しその様な事でも有れば、第一に貴方に打ち明けて相談しますワ。」
大「ハテな、恋で無ければ何だろう。私には全然(さっぱり)合点が行きません。」
夫「イエ、財産が沢山あると、人に愛せられる味を知りませんよ。私がこうして独身で暮らして居れば、ヤレ妻に成れのソレ二度目の夫にして呉れのと言って、五月蝿い様に言う人が度々ありますけれど、私は自分が愛せられるとは思いません。唯だ私の財産を狙って、その様な事を言うのだと思ってしまいます。
若し私に少しも財産が無いならば、必ず言い寄る人に身を任せます。決してその人の心を疑いません。なまなか財産が有るだけに、人様の心を疑ってしまいます。真実自分が愛せられるのか、又は財産が愛せられるのかと。
果ては詰まらない疑いから、一層財産を捨てて仕まい度いと思うことが有りますよ。捨ててしまって、その後若し言い寄る人が有れば、それは私の身を愛する人ですから、私は歓(喜)んで妻にも成ります。」
大「それは貴女の僻(ひが)みと言う者です。成る程数多い人の中には、貴方の財産にばかり目を附ける者も有りましょうが、しかし真実に貴女を恋慕う者が無いとは、決して言われません。」
夫「でも私は十人が十人まで、唯だ財産を目的にする方だろうと思います。」
大「貴女がその様な事を仰ると、真実に貴女を愛して居る男が有っても、若し言い出せば財産を欲しがる男と、下げすまされはしないかと思い、返って言い出す事が出来なく成ります。それはもう確かに貴女を愛しながら、欲張りと思われるのが厭さに、黙って控えて居る者は幾等も有ります。」
夫「オヤその様な人が有りますか。」
大「有りますとも。少なくも一人は有ります。」
と言いながら夫人の方に迫り寄れバ、
夫「成る程、若し貴方の様な方ならば、好しんば私を愛するとしても、財産に目を附けると思われるのが辛くて、黙って居るかも知れませんが、しかし貴方は私を愛しませんから!」
大「オヤ私が貴女を何故愛しません。何してそれが分かります。」
と又も一段詰め寄った。アア危ないかな、危ないかな。今一分間を捨てて置いたなら、長寿は必ず夫人を抱き締め、熱い愛情の言葉を交わすに違いない。是に至って男女の仲は実に遠くて近いと言える。
宛もあと一歩と思われた此の際疾(きわど)き瞬間に、パタリパタリと足音して、入口の閾に立ち現れた人が有った、誰ぞ、下僕(しもべ)である。二人一様に開き直る中にも、長寿は我知らず落ち入ろうとする愛情の間際から、下僕の為に救われたのを歓び、夫人は用の無い所へ下僕が入って来たのを腹立たしく思う様子が見えた。
夫「お前は何故つかつか入って来る。」
と尻目に掛けて叱り問うと、下僕は一枚の名刺を差し出し、唯今此の方が玄関に待って居ます。
夫「今夜は誰にも面会しないと言って有るのに。」
下「イエ貴女様では有りません。大谷さんに御用の有る方で。」
大「オヤ俺に用事の有る人が、ここに尋ねて来たと言うのか。ハテな誰だろう。」
と言いつつその名刺を受け取って見れば、
「医学士小林康庵」
とある。
「好し好し、今行くから少し待たせて置いて貰らおう。」
下僕は此の言葉に応じて退いた。夫人は気遣わし気に大谷の顔を眺め、
「心配な用事では有りますまいネ。」
大「ハイ心配する事では有りません。実は今日、私と共に桑柳の介添いを勤めた、小林康庵と言う者です。死骸その外の事を托して置きましたが、それ等の用事が片付いて、帰り早々私の宅へ行き、宅で聞いて又ここへ尋ねて来た者と見えます。
しかし好い所へ来て呉れました。若し此の来様が遅かった者なら、話が飛んでも無い所へ反れ、貴女の罠に首尾好く掛かって、後で貴女に笑われる所でした。」
夫「ナニ笑いますものか。しかし森山嬢の事を話て居たのが、何してアンナ話に移りましたろう。お互いに恋知らずとは言う者の、差し向かって話すれば、言葉の勢いから留度ない事を言い出しますから、もう再び愛情の事は言わない事にしましょう。」
大「それは何ともお受け合いは出来ません。」
夫「イエいけません。お互に調子を合わせて居る中に、抱き附かなければ間が悪い様に成りますから二度と再びーーーー。」
大「二度と再び若し此の様な事が有れば何します。貴女はもう此の家へ足踏みするなと言って、私と絶交なさるでしょう。」
夫「ナニ絶交などしますものか。大事な友ですもの。傍へ置いて懇々(こんこん)と説諭をしますワ。それで元の通り清い考えに立ち復(かえ)らせ、今迄通り交わります。」
大「イヤそう聞けば安心です。ドレお暇に致しましょう。」
と言いながら椅子から離れると、夫人は細い手を差し出した。
大谷は之を取ってキスを与え、心の中で、
「何うも此の部屋は、洋燈(ランプ)を余り強くてしてあるためか、空気が悪い。俺までも脳を狂わせる所であった。」
と呟やきながら玄関を出て行った。アア夫人と大谷の様に打ち解けた男女の交際は、世間に又と類は無いだろう。
此の両人(二人)後々に如何なる間柄と成り行くのだろう。又今夜小林康庵の尋ねて来たのは、果たして何の用事なのだろう。
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