巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate20

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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     決闘の果   ボア・ゴベイ 作  涙香小史 訳述
     
       第二十回 本多の噂

 明日を約して春村夫人が森山嬢と共に立ち去った後に、彼の大谷長寿と小林康庵は最早や夕飯の刻限に間も無ければ、打ち連れて倶楽部に行った。小林は只管(ひたすら)に春村夫人から案内を受けた事を歓び、
 「大谷君、明日は午前十一時頃に家を出、十二時を一分も後れない様に夫人の家へ行こうでは無いか。」
と言ったが、大谷は気が進まない様子で、

「君は行くなら行きたまえ。僕は先(ま)ア止(よ)すよ。」
 小「オヤオヤ、君にも似合わない事を。今まで毎日の様に夫人の家に行きながら、明日に限って止(よ)すとは何う言う訳だ。」
と問うたが、大谷は愛想も無く、

 「訳も何も無い。唯行き度く無いから止すと言うのサ。」
 小「イヤその行き度く無いのに訳が有ろう。今まで夫人の案内と有らば何事を置いても行ったでは無いか。」
 大「今までは今までサ。君は独り行けば好い。」
と応ずる景色更に無し。

 抑(そもそ)も大谷が何故にこの様に気が進まないのだろうか。是は外ならず、大谷が先の夜、夫人と心にも無い愛情の話しを為し、将に危うい路に入ろうとしたのを悔い、その余温(ほとぼり)の覚めるまで、この様に足を抜こうと思うためである。

 その上に又、森山嬢が此の頃夫人の家に在ることを聞き、桑柳が死に際に、
 「嬢は君を愛して居る。」と言った怪しい一言も思い出され、成るべくは嬢と顔を合わさない様にしようと、自ら控え目にしているからだ。

 しかしながら此の外に更に訳がある。大谷も夫人も互いに愛情知らずを名乗っては居るが、愛情が無い者ならば、愛情の話を始める筈はなく、その実互いに我知らず相愛(あいあい)し、相慕っているのだ。

 だからこそ彼の本多満麿が、夫人の裏門に忍び入った事が今なお大谷の心に掛かり、若しも夫人の家に行き、本多満麿が夫人の密夫であると分かったならば如何しよう。その時こそは我が身に如何ほどか辛い思いを起こすに違いないと、口にも言わず心にも語らない。

 言わず語らない心の底に、この様な想いが存(のこ)っているのだ。しかしながら小林は大谷の心を知らないので、緩々(ゆるゆる)と説き附けて、夫人の家に同道しようと、先ず大谷の手を引いて倶楽部の食堂にと入って行ったが、食堂は必ずしも食事のみの場所では無い。

 食事の用意はまだ整っては居ないが、早や幾人もの紳士がここに在って、世間話に余念も無い。その中の一人は油絵師と見え、傍の紳士に向かい、
 「君は建築学士、僕は画学士で有って見れば、互いに助け合わなければ成らないのに、君はこの頃、春村夫人の離れ座敷の設計を引き受けながら、僕を夫人に紹介して呉れないとは友達甲斐が無いよ。」
と言うと、建築学士は之に答え、

 「イヤ友達甲斐が無い訳では無い。僕も既に壁の飾り画を君に頼みたいと思い、夫人にその事を言った所、壁の画は兼ねて懇意にする森山嬢に頼むから、君には又今度画像でも頼む事にし様と、こうう云ったよ。」
 画「又今度とは、体好く断る定文句だから、それよりは断然遮絶すると云って呉れる方が有難い。」
と恨めしそうに述べるのも滑稽だ。

 建「その様に恨まれては困る。この事は全く実際の事で、既にその森山嬢と言うのが泊り込んで書いて居る。最う今日明日に出来上がる時分だ。」
 傍らの一紳士は之に口を出し、
 「離れ座敷などと、今頃は流行しないのに、何う言う訳だろう。若しかしたら色男でも引き入れて楽しむ積りでは無いか。アハハハ。」

 建「ナニ彼の夫人に限りその様な事は無い。夫人は唯だ非常に物好きで、世に流行していない事を好み、既に今度の離れ座敷なども土耳古(トルコ)風と支那風とを折衷したのだ。この広い巴里にもアノ様な離れ座敷は又と無いだろう。」

 一紳士「しかし土耳古風とは奇妙過ぎるぜ。」
 建「成る丈奇妙に作り上げて、友人を驚かせると言って居る。ナニ夫人の日頃の気質を知って居る人は、少しも不思議とは思わないのサ。」

 紳「でも出来上がらない先から、君がその様に吹聴してしまっては、折角出来上がってから、誰も驚かない様に成るゼ。」
 建「ナニ吹聴する訳では無い。唯君方だから話す丈サ。」

 この話を傍で聞く大谷長寿は、夫人がこの様に噂されるのを好まない。聞き兼ねて座を立とうとしたが、小林は又之に引き替え、更に如何なる事を聞くかも知れないと、テーブルの下で、人知れず大谷の足を抑(おさ)え、容易には立たせない。

 一方の隅から甲なる一人が言葉を掛け、
 「アア君方の話を聞いて思い出したが、或紳士は何故かアノ夫人の家の背後に在る小高い岡の上に登り、夫人の家の内を窺って居るぜ。」
 乙「それは夫人を見初めでもしたので有ろう。」
 丙「そうかも知れない。夫人は年も若いし、綺倆も好し。誰でも目を掛けて居るのだから。しかしその或紳士とは誰だ、誰だ。」

 甲「我々と同じくこの倶楽部に居る本多満麿サ。彼奴め事に寄ると恋煩(こいわずら)いでもして居るかも知れない。宛(まる)で人情本に有る若旦那が、大家の娘を見染めたと言う風だ。それも僕が先日用事で二度までアノ辺へ行き、二度とも見た事だから、間違いは無い。」

 之を聞き大谷は益々心穏やかでは無く、このままに捨て置いては、終には止める事が出来ないまでに人の評(噂)となるかも知れない。今の中に夫人に逢い、この事を告げて用心させるのに越したことは無いと俄かに又小林に向かい、

 「小林君、明日正午に君と一緒に行こう。考えて見るに、行く方が何うしても本当だ。」
 小「そうとも、そうとも。それでは僕も歓(よろ)こばしい。君が行かなければ僕一人で行く訳には行かないから、必ず十二時を後れない様に。」

 大「好し好し。」
 と約束したけれど、傍に在る人々は固(もと)より何事であるか知る由も無い。その中に早食事をも運んで来たので、人々の話は又他の事に移って行った。


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