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決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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     決闘の果   ボア・ゴベイ作  涙香小史 訳述
         

      第二十五回 青塗りの馬車

 小林康庵は大谷長寿の家を出てからもまだ疑いの念を抱いていた。彼の桑柳の遺言状が無名の手紙で公証人の家に達したと言うのは何故だろう。何人の仕業なのだろう。兎も角も倉場嬢に買い与えた象牙の机から出たのには間違い無いけれど、何人がその引き出しから取り出して公証人に送ったのだろうか。是れは全く不思議なことだと言わざるを得ない。

 倉場嬢に問えば、略(ほぼ)その手掛かりを得る事ができるに違いないと、直ちに嬢の宿を訪問して行ったが、嬢は朝出てから未だ帰って居ない。その行く先も分からないと言う。依って思うに、或いは天気の好いのを幸いに公園に行き、自分の美貌を示そうとして、空しく散歩して居るのでは無いか。

 この様な散歩は巴里の婦人に有り勝ちな事なので、小林は又歩いて公園に入って行って、此方彼方と見廻したが、倉場嬢の影も見えなかった。少し待つ中には必ず来るに違いないと、一方の腰掛に身
を休め、行き交(か)う人に目を注ぐうち、偶(ふ)と眼に留まったのは、横手から入って来る青塗りの箱馬車である。

 青塗りは一時流行した事があるが、今は世に用いられておらず、独り春村夫人のみは一曲(ひとくせ)ある性格から、流行に媚びるのを好まず、此の頃青塗りの馬車を製したとの世説(うわさ)も有るので、若しや夫人では無いかと、更にその馬車を見て居ると、馬車は殆ど我が方を差して来て、ほんの十間(18m)ばかり離れた、人の居ない所に停まった。

 果たして春村夫人であるか否かは知り難いけれど、小林が腰掛て居たのは、丁度立ち木の蔭だったので、たとえ春村夫人だとしても、小林がここに居る事は、知る事が出来ないはずだ。箱馬車の窓は開いて有ったが、窓帷(まどかけ)を垂れてあるので、中に居る人の姿は見えない。

 やがて窓帷(まどかけ)の裳(すそ)から微かに現われ出たのは、非常に細い女の手である。羊皮の黒い手袋を被(は)めているのは、その人物(ひとがら)さえ思い遣られる。いずれにしても社交界に立ち交る美人に違いない。何故にこの様に手先だけを出しているのだろうか。

 様子あり気にその指先を動かして、馬車の小縁(こべるり)りを打ち叩くのは、是れはきっと合図に違いない。意中の人と約束が有って、ここに待ち合わす者と察せられる。若し春村夫人ならばきっと大谷を待つ者である。しかしながら大谷とは既に婚礼の約束が調っているので、深く窓帷(まどかけ)を下ろして、人目を忍ぶ筈も無い。そうすると春村夫人では無い。

 広い都の事なので、青塗りの馬車に乗るのは、春村夫人の外にもあるに違いない。小林は徒に馭者の顔を眺めたけれど、是も夫人の
馭者なのかどうかは、日ごろその顔を見た事が無いので、判断の仕様も無い。この様にしているうちに又も小林の目に留まったのは、此の馬車から半町(50m)ばかり離れた、一方の入口に立つ紳士である。

 口に葉巻の煙草を燻(くゆ)らし、手にステッキを携(たずさ)え、用あり気に其処此処を見廻して居るのは、散歩の為に来た者とも見えない。やがて此の紳士は、彼の青塗りの馬車を見て、是だと頷(うなず)いたように見えた。徐々(そろりそろり)と歩みを運び、馬車の方へと歩いて来る此の紳士を誰と思う、是れこそ決闘の相手である本多満麿である。

 先の夜、春村夫人の裏庭に忍び込んだ、その本多満麿である。小林は此の様を見て、顔色が変わるまでに打ち驚いた。取分け怪しむべきは、本多が近づいて来ると均しく、美人は安心した様に、その手先を引込(ひっこ)めたことだ。本多は更に又馬車の後ろに廻るように見えたが、是から後はどう為ったのか、馬車に隠れて小林の目には見えなかった。

 凡そ五分間ばかりにして、その馭者は車の内から出立の命を受けたと見え、馬に一鞭当てると同時に馬車は忽ち動き始め、公園の外に出て、何所へとも無く馳せ去った。小林が馬車の去った後を見ると、彼の本多満麿は美人の馬車に乗って去り、今は影も形も無かった。

 アア何事だろう。昼日中シカも人目多い公園の中に於いて、美人が男子を掠(から)め去る、怪しいことと言ったら言いようも無い。小林は夢中に夢を見る思いがして、しばらくは茫然として考えて居たが、忽(たちま)ちに手を打って、

 「憎い本多だ。分かった分かった。アア今のを春村夫人かと思ったのは、本多の謀計に罹る所で有った。彼奴(きゃつ)は未だ春村夫人の名誉を害する積りで、何処かの女を青塗りの馬車に乗せ、春村夫人と見せ掛けて、自分と逢引きでもする様に公園の中でアノ様な事をしたのだ。

 今のは全くの狂言だ。若し本当の密会ならば、何で公園に来てから今まで、待ち合わす者か。」
と漸くここに安心したが、初め公園に来てから今まで、凡そ一時間を経たが、肝腎の倉場嬢は来る様子も見えないので、
 「此処で待つよりは、向こうの高い所へ行った方が、隈なく見渡すのに便利だろう。」
と呟きつつ、身を引き起こして小高い所へ移ろうとすると、此の時又目に遮る青塗りの箱馬車があった。

 先の馬車よりは稍々(やや)小作りにして、馬の毛色も大いに違い、上に乗って居るのは、春村夫人と大谷長寿である。是に依って考えて見ると、先の馬車は春村夫人では無くして、全く夫人の名誉を傷附けようとする、本多の狂言であのに違いない。

 夫人と大谷は早やくも馬車を小林の許まで進めて来て、先程から二人で婚礼の衣服を誂(あつら)える爲め、仕立て屋に行って居て、今その帰り道であると告げ、且つ今夜は必ず芝居の所で待っているとの旨を約し、又も馬車を急がせ去ると、小林は之を見送りながら、

 「何うも分からない。本多が夫人の名誉を傷つけようとする事から遺言状の一件を始め決闘に使った贋玉の事までも、皆別々に見えるが、その実何うも別々では無いようだ。いずれも本多の仕業と見えるが、その事の目的さえ探り知れば、一切の事は必ず分かる。けれど肝腎の目的が分からないなあ。

 ハテな、何の目的で様々な不思議を現わすのか。どうしても枝葉の事柄は次に廻し、目的から見破る事が肝心だ。と云って、枝葉を彼是と論議しなければ、猶更目的は分からない。」
と独り考えて頷(うなず)いて居た。

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