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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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     決闘の果   ボア・ゴベイ作  涙香小史 訳述
         
       第二十七回 不審な動き

 夜は早や十時を過ぎて十一時に近づこうとしている。
 巴里大劇場に於いては今宵モーツァルトの傑作と世に知られる「ドン・ヂトン」の戯曲(歌劇)を演じていた。此の戯曲は広く各国に翻訳せられ、英国に於いては之を「ドン・ギオバニ」と称し、沙翁(シェクスピア)の傑作と併(なら)び称せられている。精密に男女の憂情を穿ち尽くして、微に入り妙に入る者は此の戯曲に優る者は無い。
 
 今は第一齣(幕)第二齣(幕)既に演じ終って、将に第三幕に移ろうとしている。満場幾千の見物半ばは、舞台に目を注ぎ、半ばは東の桟敷の第九号の桝に目を注いだ。九号の桝には何事が起こっているのか。別に変わった事は無い。唯一人の貴夫人と之に伴う一人の紳士あるのみ。

 一貴夫人一紳士は此の桝に限らないが、取分けて衆人の目を注ぐのは何故だろう。是れは外ならず貴夫人は春村夫人紳士は大谷長寿にして、婚礼の約束が調(ととの)った事を世に知らせる為め、華美やかに着飾って来ている事と言い、取分け夫人が日頃社交界に持て囃されている為に違いない。

 夫人と大谷は差し向かいになって、他人に見られるのを嬉しく思う様に、互いに顔の色晴れ渡って年四五歳も若く見える。この様な所へ又入って来る一人の紳士、髭髯(ひげ)の中に顔を埋めているかと疑われるのは、是れ小林康庵である。

 康庵は昼の間に夫人から案内を受けて居たけれど、大谷と夫人とに成るたけ長く差し向かいの楽しみを与える為め、殊更に決められた時刻より遅れて来たのだ。夫人は先ず小林を椅子に就かせ、
 「貴方は大層遅いでは有りませんか。」
と言えば、小林は微笑みながら、

 「イヤ私の遅いのでは有りません。貴方がたが早いのです。恋人の時計は、毎(い)つも進み過ぎると言う諺も有りますから。」
 夫「でもモ―ツァルトの戯曲は後一段(幕)で終わります。」
 小「オヤオヤもう二段(二幕)まで済みましたか。実は今少し早く来る予定でしたが、入口で我々の好まない人物に逢いましたから何所の桝へ入るかと、暫(しば)し眺めて居ましたので。」

 大谷は聞き咎め、
 「好まない人物とは誰だ。」
と問う。小林は此の様な席でその名前を言うのさえも汚らわしいと思う様子で、
 「アレ彼許(あそこ)に居る紳士よ。」
 長寿はその方を見て、
 「フム、あの本多満麿か。彼奴(きゃつ)は先程から出たり入ったりして居るが、何だか知らないけれど、目障りに思って居た。」

 小「何うも又生憎と行く先々で彼奴に逢うので、嫌に成って仕舞う。」
 大「行く先々とは未だ外で逢ったのか。」
 小「実は是も用心の為だから君と夫人に聞かせて置くが。」
と言って小林は昼間公園で本多が青塗りの箱馬車に忍び入り、怪しい女と共に馳せ去った事を語り、更に彼が夫人の名誉を傷附けようと企(たくら)んでいるに相違ない旨を告げると、大谷は不興気に、

 「彼奴のする事は決まって居る。人目を忍ぶ様にしてその実人に見せて居るのだ。」
 夫「でも貴方、もうこうして縁談が極まって、披露まですれば私の名誉も傷附ける事は出来ないでしょう。」
 小「そうですとも、もうアノ様な者には取り合わずに、放って置くのが宜(よろ)しゅう御座います。」
と小林は何気なく言ったが、心の中では彼の倉場嬢を欺いて、机の脚から桑柳の遺言状を取り出した者は彼本多に相違ないので、此の後とも油断なく気を留めて、その仔細を見破ろうしているのだ。

 それにしても桑柳の遺言状は、森山嬢の外に利益を得る者は無く、そうだとすれば彼は森山嬢に思いを寄せているか、そうでなくても何か森山嬢に関係するには相違なく、又それや是れから思い合わせると、初め彼が嬢を謗(そし)って桑柳と決闘の種を播いたのも、実は唯桑柳を亡き者にしようとの目的に出たのかも知れない。

 いずれにしろ、彼の心中に森山嬢と言う一現象の在る事は確かなので、小林はそれと無く夫人に向かい、
 「今夜は森山嬢は何しました。」
 夫「嬢は何う言う訳か、昨日私が婚礼の事を話した頃から、塞ぎ勝ちに見えましたが、夜に入ると気分が悪いと、自分の家に帰りました。今朝も私は散歩の帰りに立ち寄りましたけれど、臥せって居ると言って、逢いませんので、空しく帰って参りました。」

 小林は心の中で、
 「フム、嬢は全く大谷を愛して居るのだ。それを夫人に取られてから口に出す事は出来ず、気分が悪いと言って引き籠ったのに極まって居る。」
と呟き終わり、
 「それは了(い)けません事ですネ。幸い私は医者ですから、明日にも貴方に代わり、見舞いにでも行きましょうか。」
 夫「ハイ何うかそう言う事に。」
とこの様に語りながら、偶(ふ)と見れと、あの本多満麿は又立って何処かに行こうとする様子である。小林は怪しくて仕方がなかったので、何とか言葉を設けて夫人の傍を離れ、その後を尾けて行こうかと思ったが、今来たばかりでまだ間もなかったので、モヂモヂとして控えているだけだった。

 幸いにもこの時夫人は大谷に向かい、
 「アノネ私は先程も申した通り、第三幕が済めば帰りますので、もう馬車が堀端まで迎へ来て居る筈ですが、誰か人でも遣って馭者に支度をしろと言付け度い者です。」
 大「でも堀端まで迎えに来るとは奇妙では有りませんか。此の芝居の出口まで来そうなものです。」

 「イエ今夜の馬車は、その馬が臆病で、少しの物音にも驚いて駆け出す程ですから、なかなか危険で芝居の出口まで連れては来られません。それで何時でも堀端へ待たせて置きます。」
 小林はこの機を失うべからずと思い、
 「イヤそれは私が行って来ましょう。丁度来掛けに晩餐を遣り過ぎ、少し散歩がしたいと思う所ですから幸いです。」
と言いながら早や立ち上がり、辞退する夫人の言葉を聞き流し、芝居を後に立ち出でたが、是は又、小林の目に様々の驚くべきことを見ることとなる始まりである。

次(第二十八回)へ


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