巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate31

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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    決闘の果   ボア・ゴベイ 作  涙香小史 訳述

     第三十一回 呼び出しは悪戯(いたずら)

 話代わって、大谷長寿は春村夫人と共に最楽しく芝居を見物する折りから、思いも寄らず公証人から手紙を送って来たので、その表封(うわふう)を見て見ると、
 「東の桟敷七番、春村夫人の桝の大谷長寿様至急用」
と記してある。後で考えて見れば、公証人が今夜大谷がここに居る事を知る筈は無く、取分け桝の番号まで記して有るのは、非常に怪しむべき事であったが、唯至急用とあるのに驚き、怪しむ心は毛ほども無く、封を切って読み下すと、桑柳の遺言状に就き、是非とも今夜の中に相談したいので、此の手紙受け取り次第直ぐに御出(いで)を煩わし度と有った。

 文字は日頃見知って居る、公証人の自筆では無かったが、数多(あまた)の書記を使っていることなので、きっとその中の一人に認めさせた者に違いない。今夫人と分かれのは、極めて辛い事ではあるが、「是非とも今夜の中」と有るのを、知らない振りをして過ごすことも成らないので、思い切って芝居を立ち出で、通り合わす馬車に乗り、凡そ半時ばかりにして、公証人の家に着いた。

 見ると二階にある客間までも、昼の様に硝燈(ランプ)を照らしていた。さては例に無く、夜に入るまで事務を執っている者であるかと進み入って案内を請うと、取次は直ぐに誘(いざな)って、非常に奥まった一室に連れて行った。

 ここには此の以前二度ばかり顔を合した事のある公証人の妻が、大勢の紳士と頻りに何事をか語っては打ち興ずる様子なので、大谷は初めて不審を抱き、思わずも、「オヤ」と言ってキョロキョロ近辺(あたり)を見廻すと、一同の客仁は孰れも礼服を着用して居て、堂々たる夜会の席に外ならない。

 大谷は芝居から直ちに来たので、同じく礼服は着用しているので、此れだけは先ず心強よかったが、取次が何故に我を夫人の部屋迄案内したのだろうか。引き返して公証人の事務の部屋へ尋ねて行こうかと、一足後ろに引く折しも、細君は早や大谷の顔を認め、突(つ)と立って進んで来たけれども、之も同じく不思議に思う体で、しばらくは口さえ開か無かったので、大谷はそうと見留め、 先ず言葉を発し、

「今夜はーーーー。」
と言い掛けたけれど、何と続けて好いか困った。細君も同じく、
「今夜はーーーー。」
と受けたのみで、後は当惑の様子を示した。
 大「今夜はーーー、先ずご主人にお目に掛かり度と思いますが。----。」
 妻「ハイ所天(おっと)は二階の客間に居ますのでーーーー。」

 客間で事務を執るとは、誠に不思議の至りであるが、細君と睨み合って何時までもマゴマゴする時では無い。大谷は唯だ、
 「是はどうもーーーー。」
と極めて蒙昧な言葉を残し、直ちに二階へと上って行く。ここにも大勢の客があって、主人は唯その待遇(もてなし)に忙しく、公証の事務を取り扱っている風も無い。

 大谷は構わず傍に進み寄ると、主人の当惑も又その細君に劣らず、
 「イヤ何うもーーー。実は貴方へも御案内を出すところですが、唯心祝いまでに同業ばかりを招きましてーーー、でも先ア好くお出でに成りました---。私の誕生日ならご案内も致しますが、高が
女房の誕生日ぐらいに、貴方をお招き申すのは、返って失礼の到りですから招待状も上げませずにーーー。それを貴方が御存知でいらっして下さったのは何うも最うーーー最う何うもーーー。」

 此の口振りから察すれば、今宵は細君の誕生日ゆえ、同業を招いて祝宴を張っていると見える。しかしながら大谷はまだ覚らない。
 「貴方の仰(おっしゃ)る事は少しも分かりません。今夜の用事とは何事ですか。」
 公「用事ーーー、私には何も用事は有りませんが。」

 大「イヤここで御不都合なら、事務の部屋へ参りましょうか。」
 公「イヤ事務室は毎日午後六時には〆切ります。」
 大「それは前から知って居ますが、今夜は余ほど差し迫った御用向きと見えますナ。態々(わざわざ)劇場までお手紙をお寄越こし下さって。」

 公「貴方のお言葉も分かりません。劇場まで手紙とは何の手紙です。」
 大「貴方から迎いのお手紙で。」
 公「迎いの手紙など出した事は有りませんが。」
 大「でも此の通り持って居ます。」
 あの手紙を差し出して示すと、公証人は熟々(つくづく)見て、その驚くことと言ったら言いようが無いほどだった。

「是は実に奇妙です。私からこの様な手紙を出した覚えは有りません。」
 大「若しかしたら書記の一人がーーー。」
 公「イヤ書記が何うして此の様な手紙を出しますものか。書記の手は皆私が知って居ます。誰もこの様な文字を書きません。」
 大「ハテナ、それでは誰がーーー。」

 公「そうですね。誰かの悪戯(いたずら)に相違有りませんけれど、此の中に桑柳氏の遺言状などと書いて有るのが実に不思議です。遺言状の事は貴方と私の外に知った者は無く。」
 大「イヤ、森山嬢も知って居る筈です。」
 公「でも森山嬢がこの様な悪戯をしますものか。」
 大「若しや遺言状を送って来た無名の人ではないでしょうか。」
 公「そうとより外は思い様も有りませんが、それでも矢張り合点が行きません。」

 大「そうですね。誰だとしても合点が行かないのは同じですが、先ず貴方の出した物で無いと分かれば、ここで評議しても仕方が無い事ですが、序(ついで)ながら問います。桑柳の遺言状は何う成りました。」

 公「何うも成りません、肝腎の森山嬢が受け取らないと云っていますけれど、受け取らないのにはそれ丈の手続きが有りますもので、今朝もその催促に遣りましたが、嬢から何の返事も無く、此のまま置いては何時とも無く、嬢の物に成って仕舞います。」

 大「嬢の物に成る方が返って好いかも知れません。」
 公「私もそう思います。何しろ年々千円以上の所得が有る財産ですから、それを受けないと言うのは馬鹿げて居ます。ーーーでも今夜貴方には飛んだ御迷惑を掛けました。」

 こう言うのは早く帰れよがしの言葉なので、大谷はその意を察し、
 「イヤ私こそ貴方の折角の祝宴に邪魔しまして。」
と好い加減に挨拶して、狐につままれた様に此の家を出たが、是れは何者の悪戯(いたずら)なのだろう。

 大谷はこの間に夫人が大怪我をした事とは素より知る由も無いので、まだ劇場に居る事だろう。切めてはその愛らしい顔を見て、この腹を癒(いや)そうと又も馬車を急がせて、間も無く劇場に帰り着いたが、早や夫人の去った後である。

 益々機嫌を損じながらも、此の上は唯だ倶楽部に行き、小林に逢って此の悪戯(いたずら)の本人が誰なのか、彼の意見を聞く外はないと、更に又倶楽部を指して出て行った。

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