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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate7

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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    決闘の果   ボアゴベ作  涙香小史 訳述
         

      第七回  遺言状は〇の中に在り

 アア不正の決闘、敵の介添人は木の弾丸を用意して真の弾丸と摺(す)り替えたのだ。之を悟った者は独り医学士小林康庵あるのみ。去されど小林はまだ証拠不十分と為し、同役の大谷長寿にも之を告げず、気を長くして緩々(ゆるゆる)と本多満麿、古山禮造等の行いに目を附けようと決心し、知らぬ顔で済ませた。

 それは扨(さ)て置き、第一の介添人大谷長寿は、桑柳守義の死骸を小林康庵に任せ、更に警察署に届け出の事なども一切頼んで置いて、己はそれよりも一層難しい用事を済まそうとして一人巴里府に帰って来た。桑柳と許嫁の約束のある森山嬢に、桑柳の殺された事を知らせるのは、容易な様で容易では無い。

 若し作法も無く、思い遣りも無く、電報同様の文句を用いて、「御身の所天(おっと)は殺されてしまったぞ。」
と言い放って済む事ならば、何の雑作も無いけれども、美人は極めて涙脆(もろ)い動物である。無造作に近ければ、紳士の礼儀に背く。その上に大谷の耳の中には、
 「嬢は君を愛して居るよ。」
と言う腸(はらわた)を断つ言葉が残っているのだ。

 大谷は唯死に際の戯言(ざれごと)と思い捨て、忘れようとするが忘れる事が出来ない。此の言葉が若し戯言で無かったならば、如何したら好いだろう。森山嬢は絶世の美人であるが、無二の友として親しんだ桑柳の許嫁である。桑柳は既に死んだとしても、我れは其の許嫁である事を知っていながら、嬢に近づいて好いものだろうか。

 こう思うと踏む足さえも鈍って来て、嬢の家には進む事が出来ない。知らず知らず我が家の門口まで帰って来てしまった。今は仕方が無い。先ず家に入り充分の勇気を養った上で、改めて踏み出そう。それに桑柳の手帳の中には、書面ありと言った言葉もあるので、嬢に逢う前に、手帳の中を検めて見よう。

 如何様な書面があるかも知れない。事に寄ると彼の桑柳は親も子も無い身分なる故、其の財産を嬢に贈るとの旨を認め、之を掟どおりの遺言状に作って有るかも知れない。若しその様な事でも有ったならば、嬢に悲しい事を知らせると共に又喜ぶべき財産受け継ぎの事をも知らせることになるので、我が役目は大いに気が楽になる。

 好し好しと独り頷き我が家へ歩み入ると、中から従僕(しもべ)が出て来て迎えて、
 「旦那、只今春村夫人が散歩の帰りだと言って、お立ち寄りに成りまして、今夜は色々お話しも有るから、是非八時頃に貴方のお出でを願うとのお申し置きです。」
と伝えた。

 开(そ)も春村夫人と言うのは、数年前に夫を失い、今は寡(ひと)り居(すま)いの身と成って居るが、年はまだ五五(二十五)の春に達せず、才あり色あり、その上財産と言えば、王侯貴族にも劣らないほどに富んで居るので、我こそは夫人の愛を得て、二度目の夫に為ってやると言って、夫人の知遇(ちかづき)を求める者が多く、当時社交界では飛ぶ鳥を落とす程の勢いがあった。

 此の夫人は年来、大谷長寿と兄弟よりも親密な交わりを為し、世間の人は既に大谷と、許嫁の約束をしている様に評するも有る。しかしながら許嫁の約束があるわけでは無い。所謂意気相投ずる所から、大谷は夫人と清き談話に夜を更かすのを、此の上無い楽しみと為し、悲しみにも喜びにも、夫人に相談しない事は無く、又夫人は大谷を以って世間に唯一人の知己であると言い、身の上に掛かる事は、一として大谷に打ち明けない事は無い。

 其の交情のの密にして而も清い事は、実に兄弟の相愛するに異なら無い。若し此の交情をして、一転するの機会があれば、大谷と夫人とは最も仲の好い夫婦と為るべきも、未だ其の機会が来て居ないだけである。それで大谷は下僕の言葉を聞き、単に「爾(そう)か」とのみ答えたが心の中では、

 「アア此の様な鬱々(くさくさ)する時には、夫人と一時間も話をすれば気が晴れるけれど、今は大事な用事を控えて居るし、之が済めば直ぐに行こう。」
とこの様に思い、我居室に通って身を寛げて、衣嚢(かくし)から弾丸の貫いた桑柳の手帳を取り出した。

 其の中を検(あらた)めて見ると、如何にも「大谷長寿殿」と我に宛てた一通の手紙があった。之も同じく中程に弾丸の穴がある。此の書面が若し遺言状であるならば如何にすべだろう。遺言は極めて大切な事柄なので、若し不幸にして小林康庵の言った様に、当人の名前の所に穴があれば、桑柳が折角に臨終(いまは)の望みを記した遺言状も無効と為るに違いない。

 当人を殺した上、更に遺言を迄も無効にするとは、恐ろしい本多の弾なる哉と心配しながら封を開くと、幸いにして遺言状では無かった。通例の手紙である。幾重にか折畳んで有る為め、所々に穴が有るが、文字には是と言って障(さわり)は無い。先ず好しと安心して読み下す。其の文、

 我が友、大谷長寿君よ、余は死後の事まで細々と兄に頼んで、徒に兄を煩わす事を好まず。只願くは余の遺言状を代言人何某に渡されよ、左すれば何某が然るべく取り計らう筈にしてある。遺言状は〇の中にあり。」

 是まで読み来たりて大谷は失望した。〇の中とは何の中だろう。肝腎の一字を弾で打ち貫き、唯〇い穴を残すのみなので、何(ど)の所を捜して遺言状を取りだすべきか。アア〇の中、〇の所に何の字を認(したた)めてあったのだろう。

 家の中か、部屋の中か、箱の中か、孰(いず)れとも分かり難い。唯一字の紛失は手紙を反古同様の物としてしまった。大谷は唯恨めしそうに〇い穴を見詰めるのみ。



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