巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate9

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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    決闘の果   ボアゴベ作  涙香小史 訳述
         

      第九回 気が重い大谷

 大谷長寿は重い心を引き立てながら、森山嬢の母である森山夫人の居間に入った。夫人は長く中気の癪で腰さえも立たない身なので、嬢が自ら工夫して作った船底の椅子に座り、非常に退屈そうにして居た。この様な人の常として、訪い来る人を殊の外歓(よろこ)んで、空しく立たない腰を椅子と共に揺り動かしながらも、

 「サア大谷さん、好く入らっして下さった。椅子を取って上げるのですが此の通りの身体ですから、何うぞ其の椅子を此方(こっち)へ寄せ、サア何うか私の前へお掛けなさって。イエ、今もたった今、私は独り貴方の事を思って居たのですよ。

 昨日今日、桑柳さんがお見えなさらない物だから、多分又貴方に連れられ、何所か近在の田舎へでも、鳥撃ちに行ったのだろうと、エ貴方、老人の小推量は好く当たりましょう。それで桑柳さんも、二三日私共へ無沙汰して、ツイ閾の高い心地がするので、貴方を其の詫びに寄越したのでしょう。

 アノ方も近々嬢と婚礼を為さる筈ですので、何も其の様な遠慮は要りませんのに。イエ爾(そう)ですよ。打ち解けて交わって居る間柄でも、許嫁の約束が出来たと成れば一寸物事に廉(かど)の出来る者で、愈々婚礼が済むまでは、こうしたら笑われは仕まいか、アアしなければ先の機嫌を損じはしまいかと、詰まらない事まで心配して、平生の気性に似合わない事をする者です。

 イエ桑柳さんもお年がお若いから、其の様に歯を噛むのも御無理は有りませんけれど、貴方までが爾々(そうそう)遠慮がましく、態々(わざわざ)言い訳に入らっしゃるとは何ですよ。何に構う事は無いから、俺と一緒に来いと連れ立って来て下されば好うございますのに。」

 大「イエ、今日伺いましたのは実は。」
とまで大谷は言い掛けたけれど、此の様子では、夫人が彼の決闘の事を、夢にも知らないことは必定なので、何と言い出したら好いのか。「実は」の後は容易に口から出ず、夫人は何と悟ったのか、

 「実は抔(など)と仰っては角が立ちます。ナニ、二日三日来ないからと言って、私の方では少しも心配は致しません。世間の人は兎角に自分から求めて余計な事を苦労にし、婿にも為る者が一日姿を見せなければ、若し心変わりがしたのでは無いかの、病気にでも成ったのでないかの、或いは又ツイした事から友達になぶられて、決闘でもしたのではないかのと、様々に気遣いますが、私はもう桑柳さんの気質を見抜いて、嬢の婿にも承知した程ですから、三日が五日来なかろうが、其の様な心配は致しません。」

 大「イヤ夫人よ。今日私しの伺いましたのは、実はーーー。」
 夫「イエ此の様に安心な婿を定めたと言うのも、全く貴方のお陰ですよ。初め桑柳さんが嬢を見初(みそめ)て貴方に相談した時に、貴方が森山嬢ならば君の妻にしても恥ずかしく無いと、こう言って下さったから、桑柳さんが終に私共へ申し込む事に成ったのです。

 それですから私は申すに及ばず、嬢もドレ程か貴方の御恩を有難く思って居ましょう。イエ本当ですよ。嬢はもう桑柳よりも貴方の事を大事に思い、幾度と無く貴方の評(うわさ)をします。先日も私はそう申しました。其の様に大谷さんの噂ばかりしては、若し桑柳に詰まらない疑いを受けるかも知れないから、お前が有り難く思う分には幾等思っても好いけれど、余り口へは出さない様にと、ハイそれでも嬢は聞きません。矢張り貴方の事を申しましてーーー。」

 大「イヤ今日参りましたのは実の所ーーー。」
 夫「イエ、まア貴方の仰る事は大抵お聞き申さずとも分かって居ます。今も言う通り、二日や三日顔を見せないのは、若い者に有勝ちの事ですから、先ずは私の申す事を先にお聞きなさい。其の後で緩々(ゆるゆる)と伺いましょう。ネエ貴方、愈々(いよいよ)桑柳と嬢との婚礼が済んだ後でも、貴方は今までの通り桑柳と懇意にして、時々は又此の腰の立たない老婆の所へもお出でを願います。」

 大「それは勿論の事ですが、実はーーー。」
 夫「イエ、それもネ、友達が妻を持つと、「彼奴(きゃつ)妻を持ったが為に、今までとは心が変り、何と無く友達を粗末にする。」
などと好く思う者です。

 それゆえ妻を持てば自然と友達からも疎遠にされ、何と無く分け隔ての出来る者で、私は桑柳と貴方の間に限り、其の様な事などの無い様に仕たいと思いまして、イエそれに付き私は実の所、貴方にも一人、然るべき妻をお持たせ申したいと思いまして、エ貴方は春村夫人は気に入りませんか。

 春村夫人はアノ方なら年も貴方に相応していますし、倚倆と言い、財産と言い、とりわけては嬢の事にも気を附けて下さるし、併し貴方は是まで通り、夫人の許(もと)へは屡々(しばしば)お出でに成って居ましょうネ。」

 大「ハイ随分参りますが。!」
と答えながら大谷は考えて見ると、
 「此の口まめな老人の前では、迚(とて)も桑柳の死んだ事を言い出す時は無い。何とかして嬢の部屋に立ち向かわなければと思い、
 「私は未だ嬢様にご機嫌を伺って居りませんので。」
と半分言うのを夫人は受け取り、
 「アア貴方は嬢が私の傍に居ないから、何故かと御不審で有りましょうが、嬢は御存じの通り、画(絵)を書いたり細工を仕たり、其の様な事が大好きですので、今日も居間にばかり籠っております。

 それもネ、私し共は御存知の通り、僅かな財産で有りますので、 
 『若しもの時には芸が実を助けるとやら言う様な事が有ろうも知れない。』
と私くしが用心して習わせ置きましたのが、今は当人の慰みと為り、少しの間も細工物を離れる事が出来ないほどになりました。でも仕合せな事には、貴方のお蔭で桑柳の妻になる事と為りまして、是でもう生涯、芸が身を助ける様な不幸せもありますまい。私も安心して死なれます。」

 大谷は此の言葉を機会(しお)にして、
 「イヤそれほど細工物がお好きで居らっしゃれば、暫(しば)しでも手をお離せ申させるのは、反って失礼に当たりますから、私が直々にお居間へ行き、ご機嫌を伺いましょう。」
と口まめ夫人の返事さえ待たずして、其の儘(まま)立ち上がったのを、夫人は敢えて引き留めようとはせず、
 「ハイそれが宜(よろしゅ)うございます。早く嬢に桑柳の詫びを済ませ、それから直ぐに又桑柳を連れてお出でを願いましょう。」
と笑いながら延べるので、大谷は心の中で、

 「非常に気の毒で、二度と此の夫人に逢うことは出来ない。若し桑柳が死んだと聞けばどれ程か悲しむだろう。友達尽くしとは言うものの、飛んだ使いを頼まれた者だ。夫人さえ此の通りだから、嬢には又一層言い出し難いにに違いないぞ。」
と重荷を負った心持で三階へと上って行った。



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