musume1
嬢一代 (明文館書店刊より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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一
確かに女は百年の身の上総て他人に頼(よ)る者で、他人と婚礼して夫とし、生涯夫の物となり、憂きも辛きも嬉しきも楽しきも、一つとして夫の身より来ないものはない。夫が盛んであれば妻共に栄え、夫衰えれば妻共に落ちぶれる。だから婚姻とは、女一代の運を定める関所にして、女の身に取りこれほど大事なものは無く、又これほど気に掛かるものは無い。娘時代は無我夢中なので婚礼のその日まで少しも気にせず、唯小児(ねんねい)の心で暮らす向きも多いが、小児の心の中にも何処やら気に掛かるところがあり、我が身は如何なる夫を持ち、如何なる生涯を暮らすのだろうと、時には自分で考え見ることもあるだろう。
一体どの様な生涯を送るだろう。
思えば楽しくもあり、気遣はしくもあり、この楽しみ、この気遣いは十五、六の時より徐々(そろそろ)と心に浮かび、十八、十九の頃となれば時に触れ、折に触れて幾度と無く思い出し、寝ても覚めても考え見る事ともなるだろう。これは取り越しの苦労性と言うもので、考えたからといって愈々(いよいよ)縁談の定まるまではどうしようも無い次第ではあるが、これが女の持ち前というもので、特に生涯の大事なので思い出すことは無理も無い。
やがて二十歳を越え、二十三、四歳ともなれば、徐々(そろそろ)心細い気にせられ、前は楽しみ七分、気遣い三分だったものが、果ては楽しみ三分、気遣い七分ともなって来る。楽しみも気遣いも、早やきも遅きも、総てその女当人の生まれ付きで様々であるが、ここに英国ブランリーの片田舎に住む画家ダントン氏の一人娘、イリーンという者、早くその母に別れた分だけ、心細い事が多いのか、年十七歳にして世間の娘達同様に、まだ小児の他愛も無い戯れを好みながらも、時々生き残るその老祖母に向かい、
「ネエお祖母さん、私の後々は如何なりましょう。」
などと気遣はしそうに問う事がある。老祖母はその度に、
「お前はまだその様な事を言う年ではないよ。言ったからと言って成るようにしか成らないから。」
と返事したが、娘の心には成らぬようにしか成らぬ、その「成る様」がどの様なことだろうと、常に自ら怪しんで、人知れず思い煩(わずら)うことも有り。時には一人心の内に自分の望みを描き出し、夫にはこれこれの男を持ち、家は云々の所に住まい、あの様、この様に暮らし度いなど、当ても無く考える事すらある。
十七度目の誕生日から半年も過ぎた頃は、その身が常に遊び暮らす、近辺の谷川の岸沿いにある川柳の岸陰で、流れる水の細語声(ささやきごえ)を聞き、草摘みなどして戯れながらも、心にその事を思い続け、時の移るのを忘れる程の事も有ったが、或る日の事、毎(いつも)の如くその岸辺に至り、大魚小魚の楽しそうに遊ぶのを見ては、我が身も終には子を持って、このように親しみ合って暮らすのだろうか、それにしても我が身の夫は誰なのだろうかなどと思い、枝に囀る鳥の声を聞いては、未来を告げる懐かしい声かと疑い、恍惚としてほとんど我が身を忘れそうになっていた。
そんな折りしも、夕日の光りが、顔を照らして暈(まばゆ)いのに心附き、早や日の暮れるに至たったのかと、驚いて立ち上がる足元に、何やらただならず輝く品物があった。茂っているのは草、散っているのは木の葉、水に濡れた小石の外に光る物は無い場所なのにと、娘は俯(うつむ)いて拾い上げると、不思議な事にこれは守り袋のようなもので、人々の首に掛かるはずの写真入りの片割れで、宛も小さい金時計の蓋かと思われる形をしていて、黄金の総体に細工微妙に草花を彫ったものだった。
何人(なにびと)が落として行ったのだろう。不思議で仕方がなかったが、道に落ちて居た品物を拾うとは、清き家庭に育った少女の心には、何とやら許し難い気にさせられ、
「アア、拾わなければ好かったのに」
と言い、元の通りその所に丁寧に捨て置いて、後も見ずに立ち去ろうとしたが、落ち着かない所がある。
「イヤイヤ、後でもし村の善からぬ小児でも拾っては」
と呟いて立ち止まった。
もとより高貴の品なれば、その持ち主が何人にもせよ、わざと捨てたのではないことは必然なので、それと自ら気が付けば探してここへ立ち返る事は間違い無い。それまでにもし他人が見付けて拾い去り、ついに落とし主の手に入らぬ事と為ったら、その人の残念がる事を思っても見よ。
我が身が第一に目に付けながら、再び捨て置いて立ち去るのは、落とし主への不親切とはならないだろうか。我が身が拾って預かって置けば、この品は充分安全で、尋ね返る人の手に入るのは確かだ。それを考えずに又捨てて立ち去るとは、見ぬ人への親切にはならないと、あれこれ思案したが、世間を知らぬ一筋の心にはどちらが好いか到底考えられない。しかしながら品の細工の余りに美しさに、このような草原に捨てて置くのはもったいない様な気にもせられ、決め兼ねて、又一足立ち返り、迷いながら再びその手に取り上げたが、もしその裏に持ち主の名前でも刻んでは無いかと、初めてその裏を返して見ると、アア裏には嬢が生涯の運をもここに定るべき異様なる一物があった。
一物とは持ち主の名前であるか、否、名前では無くて一葉の小さな写真、これに挟んだままになっていた。何人の写真だろう。嬢の顔は宛(あたか)も生きた人に逢った様に、夕日に照ってパッと赤み、又たちまちに白くなった。
写真はこれ年二十幾歳と思われる男子の顔である。顔も顔、嬢が今までに我が生涯の夫となる者はその目はこうあるべきで、その眉は云々(しかじか)に濃く、その口は云々(しかじか)に締まり、その鼻筋云々(しかじか)に通って総体に云々(しかじか)の気高き所がなければならないなど、心に描いていた所と殆ど同じほどの容貌で、一層それよりも立ち優(まさ)る所ばかり多い。
初めは何者かが我が心の中を読み、この様な写真を作ったのだろうとまで疑ったが、中ほどは我が心が他人に読まれる筈が無く、たとえ読まれたとしても、それに合わせてこの写真を作り得る筈は無いと気付き、最後には是れは決して今の人間界の人ではない。きっと何時の世にかこの世に在り、今は無き人の数に入り、唯だ面影をこの写真にのみ留める人に違いないと思うに至った。
「きっと爾(そう)よ、この様な男らしい男は、今の世には居るはずが無いもの。」
と嬢は我知らず二度三度呟(うなず)いた。
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