巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.13

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               十一

 我が身の請いは退けて、却って彼の令嬢と夜会に臨み、而もその令嬢の用いている小箋を、宝の様に大事にして隠して持っているかと思うと、腹の立つのも無理はない。これを腹立てないのは妻では無い。春人(ハルンド)は聞いて眼に角をを現し、冷ややかにイリーンの顔を見るだけで、返事をする様子も見えない。イリーンは猶(なお)も震える声で、
 「エエ、そうでしょう、私を連れて行かれないと仰ったのは、全くこの李羅子さんとやら言う方と、夜会に臨むためでしょう。」

 春人は非常に横柄に、
 「そうだよ、そうだが如何(どう)した。」
 如何したとは、何という言葉だ。
 「如何もしませんが、それではあんまりーー、ハイ、あんまりーー連れなさ過ぎるでは有りませんか。」
 「少しも無情(つれな)さ過ぎる事はないよ。地位も名誉も無い人間では有るまいし、西富子爵という身分が備わっていて見れば、その身分を支えるだけの交際もしなければ成らない。夜会にも臨まなければならない。」

 「それは良く分かっていますが、身分の有る方はその身分だけに、夜会にも宴会にも、皆その妻と共々臨むでは有りませんか。妻を一宵泣き明かさせ、隠して宴会に臨むばかりか、このような小箋まで大事にして持っていなければならないと言う、その様な交際が何処にあります。小箋の面に書いてある、この李羅子と言う名前の女は何方です。それも私には言われないのですか。」
 益々鋭き剣幕に、この上募らせるは面倒と思ったか、春人は唇の一角に微かな笑みを浮かべて来た。イリーンは猶も、

 「もし李羅子さんと言うのが、貴方に何でも無い他人ならば、何故この小箋を貴方の衣嚢(かくし)へ入れて有ります。」
 「イヤ、そう言うと角が立つ。何もわざわざ入れたという訳ではないよ。成るほど私と一緒に幾度も踊ったけれど、イヤ踊るに附けては見られる通り、私が自分の名を書き入れたけれど、この様な小箋を大事に持っている筈も無く、手袋を納める時、手袋に絡まって私の衣嚢(かくし)《ポケット》へ入ったのを、今迄気付ずに居ただけの事。それだのに彼是(かれこれ)と気を回し、訳あって持って居たかの様に思はれては実に困るよ。お前がそう気を回すから、私も止むを得ず物事をお前に隠さなければなら無い事となる。昨日も、実は今夜これこれの約束でこれこれの貴夫人と同席すると、一々言い聞かせるのは易かったが、ソレを言い聞かせてはお前が又気を廻し、彼是と疑ってその弁解に時を移し、刻限に遅れては成らないと思うから、それで何にも話さずに行く事に成ったと言うもの。女は気を回したり、嫉妬(やきもち)を焼いたりするのが非常に好くない。それが為夫にも迷惑させ、自分も余計な気を揉むというものだ。エ、イリーン、そうではないか。」
と如何にも道理(もっとも)らしく説教(ときさと)したが、イリーンは猶納得出来ない所が多く、

 「ナニ、気を回すのじゃ有りません。夫が今何処に居て何をしているか、それくらいの事を妻が知るのは当然だと思いますから。」
 「イヤ、当然ではない。夫が外へ出る度に、今日は何処から何処へ回ると、一々妻に断ったのは昔の風だ。交際の忙しい今の世界でその様な事が出来るものか。お前は年に似合わない昔風の考えばかり持っているから、チト自分で気を付けて直さねば了(い)けない。私などの考えでは夫を充分に信用し、夫に充分な自由与えるのが妻の第一の心得、それでなければ夫婦の愛情が、何時までも衰えずに居るという事は出来ないものだ。」
 「或いはそうかも知れませんが、それにしてもこの李羅子さんとは何方(どなた)です。如何(どう)した女です。」

 「イヤイヤ、未だ気が揉めるのか。隠した所で目下社交界の大立者とまで言われている令嬢だから、遂には新聞の記事や何かで詳しくお前の耳に入るだろう。そうさ、目下欧州屈指の大政治家と評せられる、是蘭(ゼランド)伯爵の一人娘で、十七歳の時、母に別れ、今は伯爵と唯二人だが、殆ど伯爵家の女王とも言う有様で、伯爵に手の中の珠と愛せられ、他日伯爵が死にでもすれば、非常な身代が嬢の手に移るから、社交界で殆ど引っ張りだことなり、嬢と一回でも共に踊る事が、非常な名誉の様に成っている。年は当年二十歳だろう。器量も今では英国第一と言われいるが、それは未だ西富子爵の令夫人、イリーンの顔を見た事の無い人の言うことさサ」
と笑顔を以って説明し了(おわ)りたれば、イリーンは漸く心緩み、さては我が疑いは全く夫の言う通り、気を回すというものだったかと、幾分は早や気恥ずかしい思いもすれど、猶無言にて考えて居ると、春人はこの上にも疑いの根を絶とうとしてか、更に柔らかな言葉で、

 「全体世間の細君達が、夫が少し外の女と親しくするのを彼是言うが、これ程気の知れない話は無いよ。夫の目では自分の一番気に入った女を、我が妻にするのじゃないか。そうして見れば、妻と言うのは世界中で一番その夫に愛せられた女で、たとえ夫が外の女と交際したところで、妻に対する其の愛がそう容易に消える筈は無い。お前にしたところがそうでは無いか、例えば私がこの李羅子と親しくするだろう。それを見て李羅子さんが羨ましい、李羅子さんに成りたいなどと、この様に思っては大変な間違いだよ。お前が李羅子さんになり、李羅子さんが私の妻になって見るが好い、その時に羨ましさが百倍も増し、成程妻ほど夫の愛を沢山得ている者は無いと、こう思うからだ。そうして見れば、既に妻となった上で嫉妬(やきもち)など焼くのは、自分がこの人の妻だという事を、忘れたのも同じ事では無いか。」
と言って非常に分かり易く説き聞かすので、イリーンの燃えていた心は全く収まり、古人が、

 「夫婦喧嘩は如何ほど激しくとも、その結局は大抵接吻に終わる。」
と言った様に、この争いも又接吻に結局し、イリーンは我が身の眼前に、如何なる悪運が横たわり、如何ほど速やかに、我が身の方へ押し寄せ来つつ有るかを知ることが出来ないで居るのは、どうしようもない成り行きと言うほかはない。



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