巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.14

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               十二

 この時は丁度八月の央(なかば)で、今迄田舎に暑を避けて居た貴紳歴々も、涼風と共に追い追いロンドンに帰って来た。所謂ロンドン季節と言って、社交界が次第に賑わしくなる初めの頃であるから、春人がイリーンの許にあることは稀で、ロンドンに留まる事が多くなっているが、どう云う訳か、春人はイリーンがロンドンに行く事を好まない様子で、ロンドンの風塵は柔らかな女の皮膚(はだ)に宜しくないなど言って、それとなく制するので、イリーンもその意に従い、なるべくは住居(すまい)にだけ引き籠っていた。

 そんな中で、或る時フト思って見て、女子が既に夫を持ったならその日からして、婚礼の指輪と言うものを嵌め、我が身に主人のあることを示すことになっているが、夫が同じ指輪を嵌め、その身に妻があることを示さないのは片手落ちというべきだ。既に世間には夫婦一対の婚環を取り交わす人さえ有るのに、春人の指に有妻のしるしを纏(まとっ)ていないのは不都合な事だ。好し好し、わが身の工夫でしかるべき指環を作らせ、この次の彼の誕生日に、不意に我が身よりの贈り物として彼を驚かしてやろうと、春人の日頃の戒めを打ち忘れ、やがて自らロンドンに出て行って、思うが儘(まま)に注文し、明後日又受け取りに来る事を約束して、ハイド公園の辺りまで帰って来たが、この時公園に軋(きし)り入る1輌の馬車の中に我が夫春人が我が身と同じ年頃の一美人と相乗りしているのを見た。

 イリーンは痛く驚き、もしや我が目の迷いではないかと、再び見ると、全く夫春人に相違なく、美人は天女かと疑わるるほどの容貌である。ことに春人が深く美人の気に入られようとするように、只管(ひたすら)嘆服の色を面に浮かべて、美人の顔を見詰めながら話しをしている様子は、彼がかって我が身を妻とする頃、我が顔を見詰めたのより更に熱心に見受けられるので、イリーンはその所に立ちすくむばかりだったが、その中に馬車は早や彼方へと行き過ぎてしまった。

 イリーンはその行く影を眺めて、胸に剣でも刺し通されるほどの痛みを感じたが、外にどうにも遣りようが無い場合だったので、その儘(まま)家に帰ったが、翌々日になって注文の指環を受け取りにと、再びロンドンに行き、再びその帰る道に同じ所を過ぎると、これが悪魔の引き合わせとも言うべきか、再び同じ馬車の中に春人が同じ美人と相乗りし、同じ方に行くのを見た。この時も、春人は我が身に気付かず、行き過ぎたが、イリーンは心に前よりも又一層の痛みを感じ、唯その所に倒れるかと思う程だったが、馬車が既に去った後では如何しようにも方法が無い。こみ上げて来る涙を抑えて、住居(すまい)へと帰って来た。

 かくて一室の中に入り、心を鎮めて考えて見るに、是も或いは交際の都合で、如何なる事情に由るのかも知らない。妻の有る身がまさかに外の婦人に心を寄せ、その身その婦人及び、その妻の生涯を誤る様な振る舞いをする筈も無く、是も或いは春人の言っていた女の浅はかな心で、気を回すというものなのだろうか。妻として外の女を羨むのは、我が身が妻たるを忘れたものであると、説き聞かさていたのは、ここの事かと、流石に弁(わきま)え深い質(たち)だけに、漸くに思い返し、自ら我が心を慰めは慰めたが、それにしても又儚(はかな)いのは我が身の上である。

 たとえ夫に仇し心は無いにしても、妻として夫が何の都合で誰と交際をしているのか、その相乗りして毎日公園に行く女は誰、又何の為だ、この様な事さえ知らないでいて妻という事が何処に在るだろう。我が身は妻でありながらまだ妻と言う披露はしていないとは言え、夫婦は一体にして、一つ世界に暮らすべき筈なのに、我が身は何もかも全く夫と別々である。夫は夫だけで自らその身の世界を作り、我が身をその中に入れさせない。我が身は夫の世界の外の非常に狭き区域に住み、夫の世界を覗こうとしても覗くことが出来ない。今まではそれと気付かなかったから、左まで心を苦しめなかったが、気付いた後は、どうしてこの余所余所しさが我慢できようか。

 夫が交際するのも好し、仇し女と共に運動するのも好し、唯我が身がその同じ世界に住み、夫の用事を我が用事とし、夫の苦楽を我が苦楽とし、世間の夫婦と同様に夫と一つ世界に住む身となっているならば、諌(いさ)めもし勧めもして、天晴れ妻たるの道を尽くす事が出来るだろう。初めは我が身を妻であると披露しにくい事情も有るかもしれないが、最早連れ添うこと一年の余に及び、切るにも切れない仲となり、如何ほどの都合が有っても、到底披露せずに置かれることではない。この上にその披露を猶予するのは妻として妻たる道を尽くさない者、夫として妻に相当の世界を与えないもの、良し良し、今度春人が来た時は、必ず夫婦の披露を早速行う事を取り決めよう。

 このように思い定めたけれど、猶我が心のどこかに彼の相乗りの美しき女、気に掛かる所がある。夫婦の披露を為すにもせよ、万一夫の心の中に、妻にもまだ語り難い秘密の事を隠して置いたならば如何しよう。問いて答えない秘密ならば問うても益が無い。我が身が自ら探り極めるにかぎる。探り極めてせめては彼女が何者なるか、夫は彼の女と何事をしてるのか、是だけの事を知った上で、今言う披露の相談に移る事としよう。是だけの事を探り知るには、自ら夫に知らさずに、その後を尾行して見届ける外は無いと漸く思案は決した。こうして只管(ひたすら)に春人の帰って来るのを待って居た。



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