musume15
嬢一代 (明文館書店刊より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2013.7.17
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十五
愈々我が夫春人が来春李羅子嬢と婚礼する乎(か)。これは勿論り間違いである。イリーンは幾度も其の新聞を読み返しけれど、露ほども真実とは思わず、その室内粧飾会社に命じて屋敷を飾らせていると言うような事は、自分を妻だと披露して、屋敷に迎える為の場合だけで、私が既に春人の妻であることを知らずに、この様な偽りの記事を載(の)せるのは私の位置を奪って、私が世に出る道を塞ぎ、私の名前を蔑(ないがし)ろにするものなので、早速春人の名前を以って明らかにこの記事を取り消させ無ければならないと、イリーンは一途に思い詰めて、春人の帰りを待って居たのに、この日も翌日も帰らず、翌々日になって漸く帰って来たので、イリーンは左右の挨拶よりも、先ず春人の手を取って、
「大変な用事があります。」
と言い、何事が起きたと驚き怪しむ春人に、問い返す暇を与えず、そのまま自分の室に引き連れて行き、
「先ずこの新聞を御覧なさい。」
と言い、テーブルの上に広げる彼の紙面を指差すと、春人は忽ち色を失ったが、又忽ち平気に返り、あざ笑う口調で、
「何だ詰まらない、剣幕が甚(ひど)いからおれは賊でも射殺して、その死骸でも見せるのかと気遣った。何だ、新聞紙、是が如何した。」
「如何したか。まずこの雑報をご覧なさい。サア、サア」
と突き附けると、春人は無言で読み終わり、
「何事でも無いじゃないか。」
イリーンは怒った声も鋭く、
「何事でも無い事が有ります者か。私の身の一大事です。」
「一大事、何が一大事」
「何がと言って、是が貴方に分かりませんか。私の夫の事を、妻も無い人か何かのように婚礼するなどと書き立てて」
春人はからからと大声で笑い、
「その様に言っても、俺が書いたものではない。」
「貴方の書かないことは分かっていますが、貴方が書かれて居るでは有りませんか。」
「新聞に書かれるのは珍しくは無い。」
「外の事を書かれたのとは事柄が違います。私の身分にも名前にも拘わりますから。」
「拘わるからどうしろというのだ。」
「貴方の名前で、立派に取り消させて下さい。」
「取り消させる。何だ一昨日の新聞だが、今更取り消しても仕方が無い。」
「一昨日の新聞だから猶更取り消しを急がなければなりません。新聞は一昨日でも、事柄は来春とありますから、今取り消すのは遅過ぎません。」
「新聞をそう買い被っては仕方がないよ。勝手放題な事を書くのだから。」
「勝手放題にもせよ、こう詳しく書いてあっては誰でも嘘とは思いません。貴方がその用意として、室内の飾り付け迄命じたと書いてあるでは有りませんか。本当に室内の飾り付けをお命じになりましたか。」
「それは命じたよ。一昨日頃から、既にその会社の技師が来て見積もりなどしている。」
「それは私を迎える用意でしょう。」
「そうと限った訳でも無いが、兎に角、飾り付けが古くなったからし直すだけの事サ。」
「その様な事は如何でも好い。兎に角貴方にはイリーンという妻が有るのに、その人を指して、来春婚礼するなどとは余り失礼な書き方です。早速取り消させて、再びこんな失礼な事を書かないように、私と貴方の婚礼を披露して仕舞いなさい。」
イリーンが厳しく責め立ててても、春人は唯冗談の如く聞き流して、更に応ずる気色が無いので、イリーンは決然たる顔付きで、
「イイエ、貴女は新聞紙をそれほど詰まらない者と見るかも知れませんが、私はそうは思いません。之を取り消さずに置けば、世間の人に全くこの記事が本当の事だと思われても致し方有りませんから、私の名前で取り消し文を送り、それぞれ手続きを尽くします。」
と言うと、春人は少し驚き、
「その様な事はしない方が好い。それだから新聞紙などは読まないようにしろと言ってある。」
「イイエ、私はそれだから読まなければならないと言うのです。読まずに居れば、何万と言う世間の読人(よみて)が、どれ程私を踏み付けた記事を信じても、知らずに居なければなりません。貴方が取り消させて下されば好し。下さらないのなら、イイエ、そうどうしてもとは申しません。」
「どうしてもとは言わずに、自分で取り消し文を送る積りか。」
「そうですとも、決して世間の人がこの記事を信じない様、充分な取り消しを送り、其の上李羅嬢ににも侘び手紙を送らねば成りません。」
「何だと、李羅嬢にも」
「そうですとも、私がこの記事で迷惑する通り、李羅嬢も迷惑して居ましょう。全体言いば、貴方が取り消しを出させた上、暫しの間でも貴嬢の名前まで掲げさせたのは、全く拙者の不行き届きで有ったという、侘び手紙を李羅嬢に送るのが当然です。それを貴方がなさらないのなら妻として私がするのが当然です。」
「イヤその様な事はさせない。お前と私の婚礼は未だ世間へ披露しない約束だのに。」
「その約束はこの様な事は無いだろうと思ったから結んだのです。世間の人が私を社会の底へ沈めて仕舞い、再び世間へ出られない様にこの様な新聞まで出して、それを貴方が取り消して下さらない様では、何と仰っても仕方が有りません。私は自分の権利を以って、邪険な世の人と争い、塞いだ道を切り開き、埋めた土を跳ね返して世に出なければ成りません。
貴方は婚礼を秘密にし、私をこの様な所へ隠して置くのが、どれ程邪険に当たるのか、ご自分でも知らないでしょうが、妻として妻という位置も名前も得ず、世間の人に無い者同様に思われて、夫と全く別々の世界に住むのが、どれほど辛いと思います。今までは忍んで居ましたが、この様な事を書かれてまでそれを忍んでいては、自分で我が身を踏みつける様なもので、第一親にも済みません。自分の身にも済みません。
一時は貴方の都合でも、もう充分披露する時が来ました。披露しないからこそ人がこの様な事を憚(はばか)らずに書くのです。貴方の言葉と有ればどの様な事でも堪(こら)えますが、此ればかりは堪える事は出来ません。」
と日頃の恨みまで、知らず知らず言い立てるのに、春人は持て余し、宥(なだ)める様な調子で、
「イヤ、婚礼の披露は後で又相談する事にしようが、兎に角新聞の取り消しばかりは。
「この新聞を取り消さなければ、婚礼の披露も出来ないというものでは有りませんか。私は貴方が此の新聞を見さえすれば、直ぐに取り消すと仰る事と思いましたのに、此れを取り消させるのが何故その様に辛いのです。取り消さずに置いて、妻にこれ程の辱めを掛け、李羅嬢にまで迷惑を掛けるのが辛い筈では有りませんか。エ、貴方は新聞を取り消させるのが、何故それ程辛いのです。」
「何も辛いという事はないが。」
「辛くなければ直ぐに取り消させてお仕舞いなさい。それが出来なければ、今申す通り、私から取り消させます。」
「イヤ、それはいけない。」
「何故いけません。」
「俺に都合があるからだ。」
「都合とはどの様な都合です。妻にこれ程の辛い思いをさせ、新聞紙にこの様な根も無い偽りを書かせて置くという、それ程の都合が何処に在ります。」
と問い詰められ、春人は益々当惑の色を現し、隠そうとしても隠す事は出来ない。
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