巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume16

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.18

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

musumeitidai

              十六

 一歩もゆるささないイリーンの言葉に迫られて、春人(はるんど)は唯如何したら良いか分らず困るばかり。何と答えたら好いか分らない。イリーンは更に言葉を厳しくして、
 「イエ、貴方が何故に取り消しをそれ程嫌いなさるか、その訳を私に聞かされないと仰(おっしゃる)なら、無理に聞くには及びません。私は唯自分の名を保護し、自分の身を守るため、自分で取り消しを送るだけです。」
と言い切って、早やその所を立とうとする。

 春人は急いで引き留め、
 「コレ、どうしても思い留まる事は出来ないか。今その様な事をされては、私の迷惑は大変なのだが。」
 無根の事を取り消させることが迷惑とは、憐れむべき限りではあるが、イリーンは敢えてその訳を聞こうとはせず。
 「如何ほど御迷惑でも、自分の妻を社会の底へ埋めてしまい、妻の身分を失わせて、それで好いという様な訳は有りません。」
 「イヤ有る、それが有るから此の通り止めるのだ。此ればかりはどうか此の儘(まま)に捨て置いて」

 「ではどの様な訳です。」
 「イヤ、その訳は言うに言われない。」
 「言われない様な訳の為、思い留まる事は出来ません。」
 「では、言えば思い留まって呉れるか。」
 「ハイ、仰れば聞いた上で私が判断します。」
 春人は言いにそうに、暫(しばら)く首を垂れて考え入っていたが、やがて思い切った様子で、

 「言ってもお前が静かには良く聞かない。お前の耳には入れられない。」
 「イヤ、実はお前に済まない。私は穴へでも入りたいが、実はお前は!」
 「ハイ実は私は」
 「お前は実は私の妻ではないのだよ。」

 妻で無いの一言にイリーンは全く血色を失いて、紙よりも白くなり。
 「妻で無ければ、貴方の何です。」
と問い返す。其の声は一種の人間以外より聞こえて来る声かと疑われる。春人は唯面目なさそうに、前額の汗を拭いながら、
 「アア、妻のように思わせて置いたのは私が悪い。お前は妻でも何でも無い。」

 イリーンは未だ十分には理解できないように、
 「婚礼した者が妻では無いとは。」
 「イヤ、婚礼はしていない。アレは唯お前を安心させるために婚礼の真似事をしただけだ。」
 「真似事でも、長老、長老まで立ち会ったからその儀式は同じ事。」

 「イヤ、長老ではない。アレは唯の人で、私の友達、馬渕春助というものだ。長老で無い。長老で無い者を長老と言い、婚礼で無いのに婚礼と言い、妻でもなんでもないものを今迄妻と思わせて置いたのは、お前を騙した様な者で、重々私の過ちだ、今更後悔してもどうにもなら無いから、此の通りだ。」

と言って、相手に顔を隠し、そのまま首を垂れた。イリーンは初めて言葉の意を呑み込む事が出来た様に、
 「エ、エ、妻で無い。それは本当ですか。誠ですか。」
と絶叫し、座っている椅子から飛び放れ、殆ど仰向けに倒れようとする様に、よろめいたが、又忽ち前に打ち伏し、
 「それではアノ長の年月私を欺いて、罪も無い者の身を汚し、心を盗み、家を捨てさせ、親を捨てさせ、エエこの様な人の気持ちを踏みにじる手荒な、恐ろしい振る舞いが又と有るだろうか。」

 魂が消えるばかりに泣き伏して泣き叫び、其の儘息も絶え入るかと疑われたが、ややあってその泣き声の中より、切々に聞こえる言葉は、
 「エエ、余りと言えば情けない。是が婚礼だ、是が儀式だと、何にも知らない少女を欺き、虫一つも殺しもしない清い生涯を誤らせて、是が神の有る世の中にある事か。妻と思うからこそ、夫と思うからこそ、それが今更妻で無い、夫で無い、神はこの様な悪人を、罪も無い私を」
と充分には聞き取れないが、言葉に余る恨みと悲しみは、ただその体に起こった波の様な物凄い起伏の痙攣から察せられる。

 春人も今は見兼ねた様に、
 「コレ、イリーン、その様に悲しむことは無い。私の愛が今もその時も、この後死ぬ時までも少しも変わらないから好いではないか。たとえ妻で無いとしても、生涯切るに切られぬ中、互いの愛は夫婦も同様。イヤ夫婦にも猶優る愛を以って、お前に生涯不自由は掛けない。これそう泣かずに機嫌を直して。」
と泣き伏す背を撫で擦るのに、イリーンは恨みに声も術無く、

 「オオ、あの恐ろしい言葉を神は何と聞き給うか。この様な汚らわしい振る舞いを愛情とは、エエ是が愛情か、邪険な、無惨な、鬼鬼しい偽りが、エエ悔しい、情けない、この様な人非人(ひとでなし)は又と世間に有ることではない。一日や二日で無く、幾月も幾年も、一緒に居る者を欺き、神まで欺いて妻で無いのを妻だと言い、どうして気が咎めずに居られただろう。人で無い、人で無い、悪魔だ、悪魔だ。」

 ただ叫ぶのみ、その顔を上げもしないので、春人は愈々(いよいよ)持て余した様に、又も言葉を和らげて。
 「コレ、イリーン、その様に言うものではない。私はお前が是ほど悲しもうとは思わなかった。成程、悪いことは悪いけれど、何も悪気でした事ではなく、ただ愛の為分別も無く、こうなったのだから、それを思えばお前が勘弁してくれて、遂には日影の身も辛抱し、楽しくこの世を送る事に成るだろうと思っていた。これ、泣くのでは無い。何もかも既に昔と思い直して、勘弁してくれ。」
と言いつつ抱き起こそうとすると、イリーンはこの言葉に又一入の腹立ちを加え、泣き声を止めて、起き上がり、

 「勘弁すると言って、是が勘弁の出来る様な一通りの罪だと思いますか。男が女に加える罪でこれほどの罪が有りますか。私のどの言葉、私のどの振る舞いから、貴女は是ほどの罪を私が勘弁するだろうと思いました。余り私を見下し過ぎるというものです。仮令(たと)え体は汚されても、此の罪を勘弁する程未だ心まで腐りません。生まれて今迄、貴方をこの様な人と知らず愛したのが、後にも先にもただ一つの私の過ち、この外に何の過ちも何の罪も無い女を、何でその様に軽々しく見て仕舞い、この様な罪を勘弁するだろうと思います。」

 責める言葉は剣より猶鋭く、流石の春人も殆どイリーンの顔を見る事が出来ない。


次(十七)へ

a:377 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花