巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume18

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.20

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               十八

 春人は猶(なお)言い訳の言葉を継ぎ、
 「そうして三年の遊びに取り掛かり、先ず手初めにブランリーの田舎に住む、友人の許へ狩に招かれ、その狩に行って、フトした遺失物(おとしもの)のことで、初めてお前に会ったのだ。お前の美しい姿を見てから今までの約束も、是蘭(ゼランド)伯爵の言葉も、殆ど忘れ、唯愛の一念で、アア男と生まれた甲斐には、どうあってもこの様な美人と生涯一緒に暮らさなければならない、どうあってもこの女の愛を得なければ、生きている甲斐も無いと斯(こ)う思った。決して悪気でしたことではない。コレだからそう叱らずに許してくれ。」
と侘びたけれども、イリーンの心は少しも解けず、

 「悪気で無いと仰(おっしゃ)っても、私を妻に出来ない事は、その時から分かっていたでは有りませんか。私を社会の底に埋めてしまい、恥ずかしい思いをさせ、その上で捨てて仕舞わなければならないと充分に分かっていました。それが何故悪気(わるげ)では有りません。」
 「イヤ、そうでは無い。本当の妻には出来ないが、生涯不自由を掛けない様にして一緒に暮らせば、仮令(たと)え外に妻と名の付く女が在っても、お前の身は安楽に、私と一緒に暮らされるだろうと、斯(こ)う思った。」

 「悪気で無ければ、何故それだけの事を前以て打ち明けません。」
 「イヤ、何度も打ち明けたいと思ったけれど、打ち明けてはお前が承知しないだろうと思ったから。」
 「勿論、その様な鬼鬼しい心を知れば、何で私が承知しましょう。私は自分で女の道に背くと思う事は、死んでも承知しないのです。その承知しないのを見抜き、打ち明けずに隠したのは、充分の悪気を以って私を欺き、女の道に背く汚れた位置へ落とし入れたのです。」

 「イヤ、イリーン、お前がそう立腹しては実に困る。立腹の余りもし李羅嬢へでも今までの事を打ち明けられては、私の立身出世の道が塞がる。そう言わずに機嫌を直して、コレ、イリーン、コレ」
と言いながら、其の手を差し延べ、イリーンの手を取ろうとする。」

 イリーンは跳ね退けて、
 「エエ、汚らわしい、私の身にお触りなさるな。斯(こ)うなっては貴方と私の間は、この世とあの世よりもっと遠く離れて居ます。今までは辱めと知らなければこそ、辱められていましたが、知って辱めを受けるような根性まで腐った女では有りません。今迄にも、この後にも、知って悪事をした事は一度も無く、悪事というのは貴方のした悪事です。汚(けが)れは貴方の汚れです。私の身、私の心は今も猶(なお)貴方に会わない、その昔と少しも変わりは有りません。貴方が私を穢しても、その穢れは私の身に付かず、総て貴方の身に付きます。神に裁判されても私の身に少しも悪いところは無く、人に聞かせても責められるのは貴方ばかり。神にも恥ず、人にも恥ず、我が心にも咎めません。世間の汚れた人達が神の前に顔を隠し、人の前に赤面して首を垂れるような事は、このイリーンは致しません。ハイ、自分の心で裁判しても、消えないと思うのは唯親に知らさず、親の許を忍び出た事だけです。コレでさえも貴方がこれを貞女の道と言い、欺いたからした事で、自分から犯した罪とは思いません。罪荷は貴方の罪、貴方は罪の為苦しみましょうが、イリーンはこの上苦しみません。人の前へも、神の前へも、顔を上げます。今のイリーンは昔のイリーン、ハイ少しの穢れも私の身へは留まりません。」

と言い、高くその首を挙げ、蛇蝎を見るより猶賤しむ眼で、低く春人(はるんど)を見降す様は、一点罪の穢れ無い真の人間以外の者、神の膝より来た、天女もこの様であるかと思われるばかりである。

 春人はそれでもまだその汚れた声を張り、
 「イヤ、イリーン、そう言わずと許してくれ。私はお前と別れてはこの世を送ることは出きない。今迄の事は重々私が悪い。実に今更後悔する。この後はどの様にでもお前に尽くし、お前の気の済む様にするから、どうか思い直してくれ。」
と拝まないばかりに詫びを入るのを、イリーンは聞きもしないで、
 「イイエ、貴方の言葉は害の上に害を加え、益々私を辱める様なものです。」

と強く言い切りは言い切ったが、唯女の心として、今が今迄我が身分とのみ思っていた身分を捨てて、目当ても無いこの先の浮世に入る事、どうして本望で有るはずがあるだろうか。穢れは総て彼が穢れ、我が身に穢れ無しとは言え、我が生涯は茲(ここ)に尽き、我が身は再び世に出る機会も無い身と成り果てて仕舞ったのだ。是を思えば泣かないと思うが、涙は自ずから催して来る。少しの間は唯無言で唇を噛みしめていたが、ややあって、泣き声を隠す震え声で、

 「貴方は真に後悔しますか。後悔して今迄私に加えた罪を償いますか。」
 「アア、真に後悔する。どの様な辛い事でもして罪を償う。アア、屹度(きっと)償うから思い直しておくれ。」
 「イイエ、この罪を償うには唯一つしかその道は有りません。私を今更遅れたとは云うものの、改めて本当の妻という名に叶う妻として、李羅嬢との約束を取り消し、私へ妻の名、妻の権利、妻の位置を与えて披露するばかりです。その外に償う道は有りません。その代わり貴方がそうまでしてくだされば、私も、今までの事は少しも口に言わないばかりか、真底から忘れて仕舞い、天晴れ貞女の鑑と云われるほどの貞女に成り、苦しみにも楽しみにも、総て貴方の影身に立ち、貴方の生涯を守ります。今迄二つと無いこの身の愛を許し、夫とまで崇めた貴方を、罵(ののし)って分かれるのが何で快い事が有りましょう。過ぎた事は互いに忘れ、その様にしてくだされますか。エ、貴方、どうかそうして下されば、私も父への言い訳が有り、貴方も神に対し、人に対し、一切の罪は消えます。そうして下さらないとは仰らないでしょう。」

と涙と共に言い終わると、春人は無言で聞き終わり、漸(ようや)くにして、
 「イヤ、それは出来ない事をしろと云うもの。今更李羅嬢との婚約を破談にし、お前を本当の妻にすると言う事は、私の力には及ばない事だ。」
 イリーンは驚きもせず、
 「何と私が願っても泣いても、如何しても出来ないと仰りますか。そう言わずどうかーーー」

 「イヤ、そればかりは出来ないよ。」
 この恐ろしい返事を聞き、イリーンは余りの事に涙も乾き、悄然と考え込んだが、漸(ようや)くにして、決然として顔を上げ、
 「イイエ、貴方の心は分かりました。何もかも是までです。唯一つ聞くことは、貴方の頼みに応じて長老の真似をして、偽りの婚礼を助けた人の名は何と言いましたネ。」
 春人は答えずらく控えていると、
 「ネエ、李羅嬢の名前まで私に知らせた上で、その人の名を知らされないと言う事はないでしょう。」

 春人は止むを得ず、
 「実は馬渕春介」
というのだ。
 「馬渕春介、分かりました。この人と貴方とが私の生涯を傷付けた二人です。」
と非常に落ち着いた様に言ううちにも、イリーンの怒りは以前より猶(なお)激しく燃えて来たと見え、その眉は逆立ち。その目(まなじり)は釣り上り、恨みに震える鋭い声を一際張り、

 「貴方の心がどれ程腐っているかと言う事も、今のお返事で愈々(いよいよ)分かりました。イリーンは心の底から、子爵西富という腐った貴方を賤しみます。この後の貴方の生涯は名誉もあり力もあり、幸いもある大政治家にもなりましょうが、神の目に見る貴方の値打ちはイリーンの目に見るだけしか有りません。貴方はその名誉、その力、その幸福を持ちながらも、生涯この名も無いく、身分も無いイリーンの賤しみを逃れることは出来ません。イリーンのこの後の生涯は、唯この仇をを返すということにのみ費やします。私の一心は貴方に対する復讐の一心です。今見る影も無い姿をして泣きながら貴方に分かれるイリーンは、他日貴方を眼下に見下し、充分に仇を返すイリーンです。私は神にに誓い、死んだ母に誓い、必ずこの仇を復(かえ)します。その時には貴方が必ずイリーンの足下に平伏し、今日のイリーンの様に泣きながら助けを請い、許してくれ、助けてくれと願うことになりましょう。幾ら泣いても願うてもイリーンは決して貴方を助けず、許しませんから、その時に思い知りなさい。その時までイリーンのこの言葉をお忘れなさるな。」

と宛も呪う様に言い渡す。その言葉の鋭さに、春人は又も首を垂れ、その言葉の止むのを待ち、再び顔を上げて見れば、イリーンは早や立ち去って影も見えない。唯我が耳にイリーンの
 「この言葉をお忘れなさるな。」
と言う声の我が身に祟(たた)る様に留まって、異様に響くのを覚えるばかり。



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