巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume28

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.30

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              二十八

 五田公爵の妻となり公爵夫人と崇められて、王宮にも並ぶほどであるサクソン宮の女主と為るのは、英国幾萬の婦人が皆望んで、皆絶望した所であるのに、その地位が今は求めずして我が身の上へ降って来た。これを思うと唯夢の様な心地がして、身の程が恐ろしいばかりではあるが、イリーンは今の今迄再び人の妻になろうとは、思いもしていなかったことなので、この夜一夜を考え明かしたが、世間の人悉(ことごと)く我が身を身捨て、我が身は既に浮かぶ瀬も無い程に深い日陰に沈んだ者なのに、公爵の貴い身分を下(おろ)し、我が身の前に膝折て、願う心は実に深さ知れない大恩にして、これに背くのは人では無い、この様に情け知る人の為にこそ、命も捨てても一身は惜くないと、漸く心に動き始めたけれど、又思えばわ我が身には非常に恐ろしき履歴がある。

 公爵は之を知らない。我が身を唯生まれ立ての小児の様に、何の秘密も無い非常に清い者とばかり思って、我が身を愛し初(そ)めたので、その恐ろしい履歴を隠し、公爵の妻と為るのは、欺いて妻の地位を盗むのと同じ。打明ければ非常に意外な想いをして、その愛が醒め果てるかも知れないが、兎に角有りの儘打明けて、公爵の判断に一任しょう。

 打明けた為、驚いて約束を見合すならそれまでとし、打明けてもまだ我が身を妻にすると言えば、それこそ真実に我が身を愛するもの、我が身にたとえ愛の心枯れ尽したとは言え、有らん限りの力を以って公爵を敬い、出来得る限りに公爵の生涯を幸福にしょう。
 公爵の妻である間には復讐の機会も自ずから来るに違いないと、斯く思い定めたので、翌朝は先ず父に相談すると、父もイリーンと同じ意見なれば、直ちに公爵に一片の書面を送り、昨日のお言葉に就き、確かな返事を申し上げる前、充分お聞きに入れて置きたい事が有ると言って遣ったところ、公爵は後にとも言わず飛んで来たので、嬢は静かな一室に伴い入り、非常に落ち着いた言葉で、

 「貴方は定めし私しを、何の履歴も無い清い小児の様に思い、その為昨日の事をお言い出しに成ったのでしょうが、年こそ若いけれど、心には老女にも無い程の容易ならない履歴が有ります。斯様な履歴の有る女が公爵夫人と言う高い地位には上られないだろうと思いますので、ここで充分に申し上げます。」
と言って、先ず口を切ろうとすると、公爵はその言葉を聞くのさえ恐れる様に、

 「イエもう何にも仰るな。聞くには及びません。この清らかなる貴方の身に、公爵夫人に成られない様な、そんな履歴は有る筈が有りません。私は堅く信じ、何も聞かずに貴方を妻にしたいのです。」
と言って、一言も言はせなかったが、
 「イイエ、充分に聞いて戴き、そうして貴方のお心を聞いた上で無ければ、私の返事は出来ません。」
と言い、これよりして、我が身の過ちを少しも飾らず、有った儘をその通りに打明けると、公爵の顔色は聞くに従って青くなり、果はその前額に汗を浮かべ、穏かではいられず身震いした。

 もしイリーンが少しでも、この公爵を我がほうへ動かそうとする心が有れば、唯一言、唯一句の飾り様で、我が身に震い付かせるのも非常に簡単な事ではあるが、イリーンのが生まれ得ての清い心は、仮初(かりそめ)にも又露ほども言葉を飾るのを許さない。堅く我が身に一点でさえも、女の道に背いた振る舞いは無いと信ずるので、我が身の事を述べること宛(あたか)も他人の事を述べる様で、容赦も無く会釈も無く説き終わって、

 「サア、貴方が公爵夫人にしたいと言うその女には、これ程の恐ろしい履歴が有ります。」
と言い切って、後は無言に公爵の返事を待つばかり。聞き終わった公爵はその顔、その様子は全く別人の様だった。唯痛く驚いて、返す言葉も無い様に、暫し嘆息するばかりだったが、ややあって、
 「真に恐ろしい話です。この十九世紀にその様な悪人が有りましょうか。その様な悪事が十九世紀の白昼に行われて居ようとは思われません。」
と叫び、再び深い嘆息と共に、

 「成程、貴女の身には罪もなく穢れも有りません。罪と穢れとは総てその貴女を欺いた男の身に有るのですが、それでもーーー、ハイ、それでも社会の規則は罪を犯した人も、犯された人も、同じように見做しますから。」
と言うのは、その身も早や既にイリーンを公爵夫人と為すには足らない穢れた者と見做しているのだろうか。

 イリーンは情け無い声を絞り、
 「その様な社会の規則とやらには、私は服しません。私は唯神に訴えます。自分の心に罪を犯さない者が、社会の眼で罪人と同じ様に見て仕舞われ、同じように罰せられて、如何して服す事が出来ましょう。」
と打ち叫ぶと、公爵は何と思ったかは返事する様子は無い。

 イリーンは更に、
 「貴方までも社会の規則と同じく罪を犯した者と、その罪を犯された不幸の人とを同じ様に見て仕舞い、私を穢れた罪人に数えますか。」
 公爵は止むを得ず、
 「いいえ、決して罪人に数えると言う訳では有りませんが。---」
と言い掛けて口籠もるは、我が心を現すべき適当な言葉が無い為か、或いは今までの熱心が冷え果た為であるか。

 イリーンは強いて我が心を落ち着けつつ、
 「イエ、是だけの事を貴方に打明けて、誠に好い事を致しました。少しでもこの履歴を隠しては後々まで心が済みません。是を打ち明けた為に、貴方が私を公爵夫人に出来ない女だとお思いに成るなら、私の道は是で尽きました。これから後は唯貴方のお考え一つです。是でも公爵夫人とすることが出来ましょうか。」
と他人の事を問う如く、静かに問うと、公爵は嘆息の音も止んで、返事をしない事木石の様で、一室の内は唯物凄いほど静かである。



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