巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume30

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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               三十

 女一代の出世は唯その心掛けに在る。心掛けが好くない為、出世の階段(きざはし)を踏外し、再び浮かぶ手立ても無い社会の下層に沈む者は幾人になるか分らない。イリーンなどは身に恐ろしい履歴は有っても、唯胸に一点の曇りも無く、女としては世に又とその類の無い程の心掛けを持って居たからこそ、幾萬の婦人が望んでも得られない程での五田公爵夫人と迄出世する機会を得たものと言うべきか。

 それはさて置き、愈々(いよいよ)夫婦約束が定まってから、公爵は唯イリーンの身を引き上げることばかりに勉めて、外の事は手にも付かず、ローマ市中で飾り物師と名の付く者は入れ替わり立ち代わり、悉く公爵の前に召し出され、イリーンの身を飾るべき装飾品の調達を命ぜられ、日に幾行李(こうり)の新しい荷物が、スペロル宮に来ない日は無い。中にはゼノア市から来た天鵞絨(ビロード)あり、シランより来た編縁(レース)あり、リオンより来た絹物、ロシアより来た皮類など、殆ど数え尽されない。

 公爵はまだ之にも満足せず、着物の仕立てはパリに限ると称し、パリにある英国公使館で婚礼を行う事とし、自らイリーンに先立ってパリ府に行った。実にイリーンの幸福は天下に並び無しと言うべきだ。唯夫の年齢が少しく多すぎるとは言え、当年四十八歳の男盛なり。殊には何不足なく贅沢に暮らしてきた人なので、身体は非常に強壮にして顔に一筋の皺も無く、他人の目には殆ど四十の上には見えない。恰も立派にして心無限の愛を蓄え、殊に位は臣民の最上である公爵である。女の身としてこの上の出世はあるだろうか。

 公爵がパリに行ってから二週間を経、イリーンも父と共にローマ府を立ち、パリに至り、無事に婚礼を終えた。イリーンの心積りでは、なるべく我が身が公爵夫人と為った事は、彼の西富春人に知らせまいと思うため、公爵に願って、婚礼はなるべく静かに之を行い、又我が名前は新聞などにも出させなかった。そのため五田公爵結婚の噂は、その妻が非常な美人である噂と共に早やくも英国に伝わって、貴族社会を騒がす程の風説と為ったけれども、その新婦の誰なのかは何人も知る事が出来なかった。
 或いは仏国の貴夫人だろうと言い、或いは伊国の貴族の娘であるなどと噂し合っていた。

 婚礼が終わると共に、イリーンの父ダントン氏は伊国の古宮ほど良い所は無いと言って、古宮に帰り、イリーンは夫公爵と共に蜜月の旅に上ったが、今迄我が家として定めていた生涯の家の無いイリーンの身に取っては、早く我が落ち着くべき夫の家に帰りたく、旅は四、五ヶ月ばかりにして切り上げ、英国第一、寧(むし)ろ私人住まいとしては世界第一とも称すべき、英国のサクソン宮に帰る事となったのは翌年の花咲く春の半ばであった。

 公爵が他国から帰って来ると言えば、その一地方に取っては、大祭とも言うべき程の大事なので、土地の人民は、家を空しくして道筋まで出て迎える習慣であったが、イリーンはこの様な事々しい見栄を好まず、夫に願って唯公爵家の家従長にだけ電報を送り、一台の馬車を停車場にまで出で迎いさせ、その他は誰にも知らせない事とした。

 既にその停車場に着き、馬車でサクソン郷に入るや、広大なサクソン宮は目の前に在り、見渡す限り果ても無い広い庭に、今を盛りと咲き競う花の色は、宛(さなが)ら燃えるかと思われるばかりにして、今まで経巡って来たヨーロッパの何処にも,これほどの眺めは無い。之が我が生涯の住居かと思えば今更の如く嬉しさが胸に満ち、馬車の中で公爵に打ち向い、

 「サクソン宮の立派な事は兼ねて世間の噂にも聞き、名所案内などでも読みましたが、是ほどで有ろうとは今迄思いませんでした。」
と言うと、公爵は非常に満足の様子で、
 「イヤ、英国第一の荘園だと言う事だが、之からは英国第一の美人が鎮座する、神廟になると言うものだ。」
と答え、道の長いのも感じなかった。

 やがて馬車がその門に着くと、イリーンは降り立ちながら、宮の構えの又更に宏壮なのには、思わず首を回して見廻した。公爵はイリーンを扶(たす)けながら、
 「きっと疲れた事で有ろう。暫し居間に入り、休息した後で家の中の部屋部屋へ案内して、古書画その他の美術品などを見せてやろう。和女(そなた)は父の気を受けて美術が好きで、幸い当家は英国古今の美術を悉く集めて有ると噂される程だから。」

と言い、手を引いた儘、設けの居間に連れて入り、兼ねて雇はせて置いたと思われる、ここ待つ三人の腰元にイリーンを渡しながら、公爵は又自分の部屋に退いた。
 後に残ったイリーンは暫し用事も無いと言い、侍女(こしもと)を退けて独り長椅子に沈み入ったが、見れば見るほど物事の立派にして、殆ど我が身が落ち着かない程であったが、我が身がこの宮の女主人であると思うと、間もなく心は之に添い、極楽の園よりも更に居心の好い事となった。

 ここに幾日を過ごすうち、公爵が帰り来った噂は次第に知れて、訪ね来る人は益々多く、来る人毎に公爵夫人の美しい姿と、その立ち居振る舞いから物言いの優しくして、特に客あしらいの行き届いていることに感心しない者は無く、夫人を褒める声は其処此処に聞こえる事と為ったので、公爵も最早や我が新夫人を交際社会に披露すべき時が来たと思ったか、或る日イリーンの居間に来て、愈々披露を執行(とりおこな)う事を告げ、その宴に招くべき来客の名前であると言い、一個の名簿を披示(ひらきしめ)し、初めから順々にその身分を説明し始めた。

 何れも当家の浅からぬ交わりのある者ばかりなれども、イリーンの身には一人の知人も無いので、唯無言で聞いて居るうち、伯爵是蘭(ぜらんど)と言う名前に到った時、イリーンは之が我が身の「血を見る敵」、彼の西富春人のその妻李羅子の父であると思い、忽ち打ち驚くと共に、我が胸は破れるかと疑はれる程に鼓動し、我が目の前には一面火が燃え上がる様に見え、部屋中に恐ろしい霧が立ち込めて、我が身はその中に包まれ、息も塞(ふさ)がるかと思われた。


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