巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume32

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.3

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               三十二

 唯短い一転瞬の間に、生涯よりも長い苦しみを受ける事がある。公爵夫人イリーンがこの時の苦しみは、実に他人の一生涯の苦しみを掻き集めたよりもっと辛い苦しみである。一歩一歩近づく彼春人の足音は、一歩一歩に我が胸を踏み付けて、我が胸を蹂躙(ふみにじる)かと思われる。アア、如何(どう)しょう。今茲(ここ)を逃げ去らなければ、彼と顔を見合わせて、我が身は必ず支えることが出来ずに悶絶するだろう。だからと言って逃げ隠れるための場所は無い。折しも再び聞こえるのは夫公爵の声で、

 「サア、皆様を私の妻にお引き合わせ致しましょう。」
と言う。命の窮、運の尽きである。何とかして我が心に充分の勇気を引き起こす手段は無いか。彼春人(ハルンド)は我が身の永遠の敵であるぞ。我が身を貴族の妻であることに足らない女として、辱めて社会の底に蹴落とした大賊なのだぞ。我が身は今や彼より幾段の上に立ち、この国に又とない公爵の夫人であって、彼を足下に鰭伏(ひれふ)せさせる身分なのだぞ。彼に恐れ、彼に羞(は)じ、彼に戦(おのの)く様な不甲斐ない振る舞いをして好いものか。彼をこそ我が前に戦(おのの)かそうと、心を叱り気を引き立て、強いて身を正し、立ち上がってみたが、踏む足さえ定まらず、微(かす)かな風にも吹き倒されるのではないかと、自ら危ぶまれるばかりなので、仕方なく足場を図り、中央にある活花台の傍(かたえ)に立って、左の手を台に突いて、漸(ようや)くその身を支えたけれど、腕から胸一面を露出(むきだ)した礼服の事なので、高く打つ我が動悸は波の如く畝を作り、隠そうにも方法が無いので、右の手に持つ扇子を上げて胸の半ばをを覆い、これならばと身を繕って控える心は、断頭台の上に座し、首差し伸べて冷たい刀の落ちるのを待つ、罪人の心持よりもっと辛いはずだ。

 けれど上辺から見える有様は、実に生まれながらの公爵夫人である。扇一片で隔てる胸の中は人は知る筈は無い。絹と編縁(レース)を束ねたその裳(もすそ)は、虹の様に長く引き、顔はこの世にまたと無いだろうと思はれる美しさの裡(うち)に、天女の様な慈愛(いつく)しみがある。女皇に優る尊(たっと)さがある。稀代の珠玉を鏤(ちりば)めた飾り物は、その手首を初めとし、衣服の一面に輝いて四辺を照らし、優(ゆた)かなるその態度は壮大な室内の備え付けに釣合って、この美人をこの様に立たせる為にこの部屋をこの様に作ったのではないかと思われ、唯静かに、唯落ち着いて見えるばかり。如何(いか)なる場所に座らせても、その場所に良く似合って、少しも場劣りせず、見劣りのしない真の美人は、実にこのイリーンの様な者に違いない。

 足音は愈々(いよいよ)近付き、遂にこの室の入り口まで来た。イリーンの姿が益々静かなのに引き換えて、心は益々打ち騒ぐばかり。足音と共に又聞こえるのは彼春人の笑い声である。
 アア笑い声、笑い声、彼が我が身を真の妻ではないと嘲(あざけ)ったのもこの声である。我が身が今もまだその辱めを忘れずに、この様に苦しむのに、彼には一点の後悔も無く、その忌まわしい笑い声を続けているかと思えば、今迄彼を恐れていた腹の中に、異様な怒りを催し来た。戦(おのの)く体も戦きを止め、騒げる胸も騒ぎ止めて、両の頬の熱いのを感じる迄に血色を浮かべて来た。今が今迄、幾度も自ら勉めて、自ら怒って来たが、その怒りは真の怒りではなかった。到底彼春人に敵する事が出来ないだろうと思はれたので、ただ彼の笑い声を聞いていただけであったが、心の更に底に横たわる真の怒りが、忽(たちま)ち現れたものである。来たらば来たれ、最早何を恐れる事が有るだろうと、一度は安心して密かにホッと息を継いだ。

 しかしながら安心は唯一時である。怒り赤らんだ我が顔を彼に見られる事は我が願いではない。再び彼に会う時は彼を眼下に見下ろして、これ程までに私に賤(いや)しまれるかと、彼自らに思はせる事が初めからの決心である。怒る事も彼をまだ重く見ることと同じ事である。怒るにも恨むにもまだ足りない彼を、蛆虫同様に極冷ややかに、極余所余所しく無慈悲の人が路傍の乞食を視る様に、蹴り下して彼を見よう。他人には分らなくても、彼の心には必ず分るだろう。彼の顔、彼の姿、彼の言葉、少しも我が心を動かすのに足らず、彼が全く度外に置かれているのを知れば、彼は幾分か不快の念を起すに違いないと、心にこう思ったが、彼を度外に置く事はできない。取るにも足りない蛆虫と見ることは出来ない。眦(まなじ)りの炎は益々顔に燃え上がり、思えば思うに従って嫌が上にも我が両頬の赤らむのを覚える。

 茲(ここ)に至っては取り直す暇も無い。早や彼ら三人、我が夫に連れられて我が前に立った。イリーンは彼らの顔、特に彼春人の顔を見ようとして見ることが出来なかった。宛(あたか)も少女の恥らう、その眼が自ずから垂れて地に下(くだ)り、長い睫毛(まつげ)は深くその目を閉ざした。春人を見下そうとして見下すことが出来ずに、却(かえ)って彼に恥ずかしい我が様を見られた。何と言う不甲斐無い我が心だろう。独り我が身を叱るうちにも春人が驚いて穴の開くほど我が顔に見入って居ることは、何となく我が魂に写って分る。彼の視線は真っ直ぐに我が垂れる眼の上に注ぎ、我が瞼(まぶた)を焼くかのようだ。これ唯一秒時にも足りない間であったが、イリーンの身に取っては一年よりもまだ長い。彼は恐ろしいまで我を眺めて恐ろしいまで静かである。やがて聞こえるのは我が夫公爵が、彼の妻李羅子を第一に、我が身に引き合わすその声である。 

 「こう打ち解けた間柄で、何も四角張った紹介は要らない。サア李羅子さん、これが今度の公爵夫人です。如何(どう)か姉妹の様に思って互いに仲良く交わって下さい。」
と言った。李羅子と言う一言は、イリーンの燃える心に氷よりもっと冷たく感じた。アア李羅子、これが我身から春人の心を奪い取った女であるか。春人が私に見替えたのはこの女であるか。この女がそれほどに私より立ち優る女であるか。こう思うと共に今迄焦っても出て来なかった、余所余所しい心が急に出て来て、怒りは直ちに賤(いや)しみとなり、赤い顔は白くなった。この女も私を辱めた片割れなのに、私がこの女の夫を見下せない筈は無い。我が身とこの女の優劣を今は比べる時であると、忽ち異様な決心が生じて来た。誰にも臆しない晴れやかな笑いを浮かべて李羅子を見、その序(ついで)の余る眼で非常に冷ややかに春人の顔を見た。


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