巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume40

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.11

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               四十

 そうだ、春人(ハルンド)の汚らわしい履歴をその妻李羅子に打明ける外は無いと、イリーンは全く思い定め、直ぐに実行しようと見えたが、これは唯春人を傷付けるだけではなく、我が身の品格をまで傷つけるのと同じではないか。一身の仇は一身の力を以って果たそうとは、前からの誓いなので、今李羅子に訴えるのは即ちその力を借りようとするのと同じことではないか。
 こう思うと、是も又行い難い。

 下々では劇薬を憎い男の顔に振り掛け、その眼を焼き潰すのも有る。嫉(ねた)刃を振るって殺すのも有るなどと言えど、是も我が身の行うべき事では無いと、再び思案の淵に沈んだ。
 左右(とかく)するうち愈々(いよいよ)遊猟の当日と為り、来客は朝未だきに群れを成して出で去ったが、独り春人だけはその妻李羅子が昨夜より心地が勝れないとの事のため、出で行くのを見合わせて、後に残った。固(もと)より病気という程では無いので、李羅子は我が夫の足を留めたことを悔い、春人に向かって、後から一同を追い駆けて行って下さいと勧めるのに、春人は非常に優しそうに、

 「和女(そなた)の青い顔色が気に掛かって、如何して狩になど出て居られるものか。こうして和女の傍に居るのが、どれほど安心か知れないよ。」
 「だってそう心配してくださる程の病気では有りません。もうすっかり気分が直りました。」
 春人はいかにもその妻を愛する様に、昔イリーンと共に居た頃から、口癖に歌う恋歌を歌いながら、李羅子の手を取り、晴れやかな窓の許まで連れ行くと、窓の外には二人の目にこそ見えないが、二人の言葉の良く聞こゆる所に、先ほどから控えている一人の人がいた。

 別人ならぬ公爵夫人イリーンである。イリーンは固より二人の言葉を盗み聞こうとして茲(ここ)に来たのでは無い。客一同が出て行って、家内が静かになったため為、久しぶりに打ち寛(くつろ)ぎ、日頃嗜(たしな)んでいるバイロンの詩集を持ち、木の葉深く鎖(とざ)す縁側の涼しい影に身を置いて、読みながら考えていたが、復讐の一念はこの様な場合にも、燃え盛って、文字の意も心に写らない。

 この様な折しも、忽ち耳に入ったのは、その後絶え間なく我が心を襲いつつ有る彼春人の歌だったので、その調子の非常に軽く、その声の宛(あたか)も何の心配も無い人の喉から出で来る様なのを聞いては、忽ち胸も張り裂けるばかりに悔しさが込み上げて、一刻もここに留まることが出来なかった。しかしながら今立ち上がるのは何とやら二人の様子を探るため隠れて居たように思われ、立つに立たれない。持っていたその書が砕けるばかりに握り〆めると、又も聞こえるのは、非常に嬉しそうな李羅子の声で、

 「ネイ、貴方、あそこにソレ高い檜の木が有りましょう。私があの許(もと)に腰を卸(おろ)し、そうして貴方が其(そ)の先の木の許に立っている時でしたよ。初めて私の心に、真実貴方を愛する情の出たのは。私は今でもーー」
と言い掛けて、その声の異様に止まったのは何故ぞ、聞くイリーンは知り過ぎるほど好く知っている。暫(しばら)くして、李羅子は初めて声の自由を得た様に、

 「話し掛けているのに、接吻など為さってはいけませんよ。イイエ本当です。貴方が向こうの木の許に立ち、今の様な歌を歌って居る姿が、どの様に見えましたろう、私は心底から振るい付きたいと思いましたよ。この様な男らしい男が、他人の夫に成らず、我が身の夫に成ったのは何と言う幸せな事だろうと、急に嬉しさが胸に満ち、アア本当に是が夫婦の愛情だろうと、斯(こ)う思いました。」

 アアこれは何と言う睦まじい有様だ。是を聞く度、イリーンでなくても心動かさないわけがあろうか。やがて春人も情に耐えられい声音で、
 「イヤその様に褒められると、少し極まりが悪いよ。」
 「ナニも極まりの悪いことは有りません。是が本当ですもの。」
 「ソレはそうだろうがネ、男の身の身の上は女の様に清く透明な者ではないからさ。お前にそう言われると、何だか見苦しい梟(ふくろう)が清い鳩から褒められるような心地がする。」

 「ダッて貴方は、何も今迄に私に聞かせて極まりの悪いような事は無かったでしょう。私より外の女を愛したとでも言う事が有りますか。」
 聞いて茲(ここ)まで来ってしまっては、イリーンは其処(そこ)に根の生えた様に一寸も動くことが出来ない。アア彼春人、何とこの問いに返事するのだろう。

 「そうさ、実は或る少女を気の違うほど愛したが、今思うと実に済まない事をした。」
と、もし彼にしてこの様な返事をしたのなら、イリーンの恨みは幾分か緩む事になっただろうが、悲しいことには、彼はこの様な正直な言葉を口にすることは出来ない。事も無げに言い消そうとする。非常に軽い口調で、

 「ナニ、お前の外に誰を愛する者か。若気の至りで、色々の事を思った事は有るけれど、それはいつかも話した通り、ホンの一時の気の迷いサ、そうさ、話すにも足りない本当の気紛れサ。」
 アア天も地も聞き給え。気紛れ、気紛れ、彼はあれほどの深い契りを、ホンの一時の気紛れとは、イリーンは聞や否や、心が熱湯の様にに湧きかえり、蒼い大空も火の燃える様に見え、耳は早鐘の鳴るように響いた。

 気紛れ、気紛れ、彼は唯気紛れの為、清き少女に家を捨てさせ、親を捨てさせ、名も道も捨てさせて、挙句にその心を殺し、浮かぶ瀬も無い谷底に推し落とし、その生涯を過(あやま)らせたのに、この様な事が総て唯気紛れだったのか。我が身は唯彼の気紛れの慰みに供えられたのか。この様な無礼、この様な言葉が如何(どう)して其(そ)の儘(まま)許されだろう。

 今迄にしても我が心に、彼に一点の容赦も無かったが、其の無い容赦が又一層無くなった。今迄は無い容赦も彼の言葉一つで、少しは緩む余地が有ったが、今は其の余地でさえ無い。何をぞ厭おう。何を憐れもう。
 「好し、殺してしまう。」
と非常に恐ろしい決心は、猶予も無くイリーンの胸に湧き出て来た。


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