musume43
嬢一代 (明文館書店刊より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2013.8.14
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
四十三
イリーンが何の返事をも発しないうちに、彼春人はその痛みに耐えかねてか、
「痛い、痛い」
と呻きながら気を失った。
心配の激しい時は眠っても長く眠ることは出来ない。その心配に襲われて目を覚ますと同じく、苦痛の余りに激しき時は、気を失っても長くは気を失って居ることは出来ない。その苦痛に迫られて我に返る。春人は唯一、二分で、再び元の正気となり、元よりもっと甚だしい苦しみを感じながら、目を開いて見ると、イリーンはまだ動きもせず、物をも言わずにその所に立って居た。
「助けて下さい、公爵夫人、コレ助けて」
と言ううちにも前額には脂汗を流し、眉の間には張り裂けるばかりに太い筋が浮んだが、イリーンは更に何事も感じない様子である。
「コレ夫人、早く屋敷に帰って一同に私の怪我を知らせ、タンカを寄越してください。」
と、言うことさえもその身の力を絞り出すほど辛そうに見えたが、イリーンは唯気味の悪い光をその目に現して、非常に異様に春人を見詰めるばかり。
「早く、早く、早く手当てをして呉れなければ、私は死んでしまいます。物言うのさえも痛みに響いて、エエ体中が痛い。ウウ痛い、早く早く」
とその顔が顰(しが)め尽くしたが、イリーンはまだコレにも感ぜず、殆ど狂女の顔が時々に照り輝く様に、その顔を輝かせ、春人の方に一歩寄って、春人の頭の辺りに俯(うつむ)いた。
固よりイリーンは発狂したのではない。春人の耳近く口を寄せて、
「貴方は私の言う事が聞き取れますか。」
と問う。春人は熱心に、
「聞き取れます。早く、助けて」
イリーンは少しも騒がず、
「イエ、お聞きなさい。貴方のような根性の腐った方でも、幼い時に学校で聖書を読んだ事は有りましょう。その聖書に、昔異邦人がユダヤ人の手に落ちた時は、ユダヤ人は神が我が敵を我が手の内に引き渡したのだ言いました。貴方はそれを覚えて居ましょう。」
「ハイ、覚えていますが、その様な事は後にして早く!」
「サア、その通り貴方も今、神から私の手の内に引き渡されたのです。生きながら私の手に落ちたのです。」
「その様な事より先ず、早く助ける人を呼んで来て。」
「イイエ、決して助けては上げません。助ける人を連れては来ません。」
と落ち着いて言い放つ言葉を聞き、春人は苦痛の中にも、跳ね起きようとするほどに驚いて、又倒れ、
「エ、エ、これほどのけが人を助けないとは、エエ貴女は気でも違いましたか。このままに時を移せば、私は死にますが。」
「そうです。お死になさい。貴方は死ななければ成りません。ハイ、私の手で死ぬるのが当然です。」
と明らかに言い渡すそのうちにも、日頃の恨みは益々イリーンの心中に燃え上がると見え、最早落ち着いて話す事が出来なかった。悔しさに我慢が出来なくなった声となり、
「身体の死ぬ位の事は、霊魂の殺されるのに比べては何の苦痛でも有りません。貴方はこう云うイリーンの心を殺し、イリーンの霊魂をまで殺そうとしたことを、よもやお忘れではないでしょう。私のその後、今が今迄も苦しみは唯天が知るばかりです。こうして私の目の前に貴方が来て倒れたのも、唯天の配剤です。貴方はそうは思いませんか。」
実にこれは天の配剤と言うべきものである。今まで求めに求めていた復讐を、今は手に血を塗らずに果たすことが出来る。之を天罰では無いとしたら、余りに妙に過ぎるではないか。春人はこの云い渡しを聞き、苦痛の外に、身の震える程の恐れを浮べ、
「イエ、その罪は私が悪いから、私も後悔して今日は貴女に充分お侘びをする積りで、わざわざ此処までついて来たのです、それを未だ許さないとは、貴女の心は恐ろし過ぎます。」
「ハハア、詫びる心が出たのですか。今になって初めて出るとは余りに遅すぎるとは思いませんか。死刑の宣告がを受けた後では、罪人がどれ程悔いてももう許す道が無いでしょう。」
春人は起き直ろうと藻掻いたが、少しもその身を動かす事が出来ない。
「イエ、その様な事を言っている場合では有りません。貴女が此の儘捨て置けば私は死んでしまいます。この世に又とないほどの無慈悲な辛い死を遂げますが。」
「左様、丁度貴方が私の心を嬲(なぶ)り殺しにした様に、またとないほど苦しんで死ぬのです。今迄にも貴方へ仇を返すその工夫は、幾等も私の胸に有りました。例えば夫公爵へ貴方名前だけ知らせさえすれば、貴方は生きていられる人では有りません。或いは又李羅子へ貴方の行いを話しても。」
「エ、エ」
「貴方は随分苦しい目に逢うところでした。併しその様な苦しみは貴方の身に軽すぎますから、私は我慢に我慢して今迄待っていましたところ、自分でも思い付かない程の好い復讐を天から降してくれました。この嬲り殺し同様の復讐が最も私の心に合います。」
「エエ夫人、それは貴女の御冗談です、私を脅すのです。慈悲深い貴女の心にその様な恐ろしい考えが有ろうとは、決して信じられません。」
「イイエ、本当です。私は神にでも誓います。」
「貴女は本当に気が違いましたか。人がこの様に苦しむのを見て、助けないのは、手を下して殺すのと同様です。謀殺です、人殺しです。貴女は人殺しの罪を犯しますか。
「人殺しとでも何とでも勝手に仰い、私は天の助けを得て、正しい復讐をし遂げるのです。心を苦しめられたその報いに、貴方の肉体を苦しめるのです。」
最早どの様な事を言っても、到底夫人の心動かすべき道は無いと見、春人は絶望して打ち叫び、
「エエこの様な恐ろしい死に様が又とあろうか。日頃健康な身体だけに三日掛かるか五日掛かるか、その間この痛みに耐え、少しづつ死で行くのを、自分で知って居なければならないとは、エエ、夫人、コレ、お慈悲です。お情けです。」
伏し拝むばかりにしたが、イリーンの顔は少しも和らがない。
「イエ、コレだけでは未だ満足しません。貴方が少しづつ死んで仕舞うふのに、この後三日掛かろうが十日かかろうが、私は毎日此処に来て、その少しづつ死ぬ様子を見届けます。ハイ、死に切れるまで毎日来ます。貴方も私の霊魂が少しづつ死ぬのを毎日毎日見て居たでは有りませんか。」
アア世に又これほどの恐ろしい宣告はあるだろうか。
a:853 t:1 y:0