巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume44

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.15

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               四十四

 イリーンは発狂したのではないとは言え、その強い復讐の一念はほとんど発狂したのも同様である。平生の愛深く、慈悲深いイリーンならば、如何(どう)してこの様な無惨な振る舞いを忍ぶ事が出来ようか。唯復讐の一念は、その行いが無惨であれば無惨であるほど、益々心地好く思うのだ。

 だからイリーンは顔に一点の憐みをも浮かべず、大理石に刻んだ美人よりもっと静かに、泰然として其処に立ち、春人の倒れた姿を見下しながらも、心の内に彼春人の罪を数え、
 「アアこうして置けば二日も三日も苦しむだけ苦しんで、その中に死んで仕舞う、再びその顔で人を迷わす事も出来なければ、その汚らわしき唇で人を欺く事も出来ない。」

と呟くと、その中に春人の傷口から流れ出る血は、滾々として辺りの芝草を染め、出でる血と共にその力も出尽したので、今迄怒りに赤かった春人の顔は、次第次第に青白くなり、もの云う元気も消えたかと思われるばかりなので、さては我が思ったほど彼の苦しみは長くは無い、二日三日とは言わずに、今にも事切れとなるのではないか。そうすれば天は我が身から慈悲深く、我が身がもっと彼を苦しまそうと思っているのに、早やくも彼に「死」と言う救いを下し、一切の苦痛を逃れさせようとしているのではないかなどと怪しむと、この時春人は死に際の怪力を出したものか、又も悔しそうに目を見張り、

 「それでは余りに酷いではありませんか。貴女は人殺しと言われるのは厭(いと)いませんか。」
 「前々からの約束だから、どうも致し方有りません。昔私が貴方の前に泣き伏して、如何か助けて下さいと言った時、貴方は何と言いました。私の顔を見て嘲(あざ)笑ったではありませんか。今は貴方が私の前に泣き伏すから、私が嘲笑う順番でしょう。」

 春人は返事も無く、唯呻いてその口を動かしたが、イリーンは知らない顔で言葉を継ぎ、
 「其の時貴方は私を、名も無く出世の道も無い日陰に埋まる女と思い、復讐などとは片腹痛いと思ったでしょう。併し私は天の力を信じ、天は正しい人を助けると信じますから、必ず復讐の時が来るものと思い、貴方の目の前で誓いました。ハイ、他日貴方が私の前に泣き伏し、幾等助けてくれと叫けんでも、私は助けませんから、其の時に思いお知りなさいと、言い渡して置きました。イリーンのこの言葉をお忘れなさるなと、あれほど念を押したのに、貴方はもう忘れましたか。」

 恨みの限りを繰り返すと、春人は返すべき言葉が無いけれど、この場合に臨んでは唯イリーンの心を動かす外、我が身が助かるべき方法が無いので、死にもの狂いの有様で、
 「ダッテ、この私を見殺しにすれば、貴女にも必ず天罰が参ります。」
 「ハイ、天罰が参ってもそれは私の事ですから、貴女が心配なさるには及びません。私は甘んじてその天罰を受けます。如何(どれ)ほどの苦しみでも耐えますよ。決して再び貴方に向い、助けてくれとは言いませんから、貴方は黙って自分だけの天罰にお服しなさい。」

 「でも夫人、貴女は天罰より世間の罰の恐ろしいことを知りませんか。私がもし助かれば、決して黙っては居ませんよ。貴方を人殺しの罪人として、法廷にも訴え、且つその罪を世間にも鳴らします。」
 「それも御勝手です。其の時には私は私だけで自分の身を弁護します。それ寄りももっと近道は、この儘(まま)貴方を捨てて置けば好いのです。その中に自然と死んで仕舞い、法廷に訴える事も、罪を鳴らすことも出来なく成ります。」

 春人は又も痛みにその身を悶えながら、
 「その様な事を仰らずと、よく考えて下さいな。今私を助けてくれれば、貴女を命の親と崇(あが)め、生涯貴女の奴隷です。」
 「それには及びません。」
 「この儘捨て置けば自然と死ぬだろうとお思いですか。何でこの儘死にましょう、声の有る限り、力の続く限り、助けてくれ、助けてくれと叫けびますから、誰か必ず聞き付けます。」

 「試しに叫んで御覧なさい。誰が聞き付けますか。ここはもう数ヶ月の間私の隠れ場で、私は毎日の様に此処へ来て、貴方に対する復讐の工夫ばかり考えていましたが、一度も人に逢ったことは有りません。人の通る道筋とは全く方角が違っています。一年此処(ここ)で泣き声を放っても、誰も聞き付ける事は有りません。」
 「でも山番は通ります。そうすれば貴女の心の鬼々しさは、直ぐに世界中の人が知ります。」

 「此処は山番も来ない所です。それだから私が自分の隠れ場に選んだのです。」
 「山番は来ないにしても、私の友人が尋ね出します。第一に私の妻李羅子が、左様サ、私が日の暮れまで帰らなければ、直ぐ心配を始め、それこそ草木を分けてでも、見え出すまでは探さずには置きません。」
と言い来たったが、イリーンの少しも騒がない色を見ては、コレさえ望み無しと思ったか、流石の悪人も唯死様が悲しくなり、声を放って泣き出し、

 「エエ、妻もあり子まで近日出来ようとするのに、妻の介抱さえ受けずにこの死に様は何事だ。天に憐みは無いものか。」
と叫ぶうちにも、涙はその頬を伝い降ったが、手を曲げてこれを拭う力も無い。人間悲嘆の極度とは、この様な場合を言うのでは無いだろうか。イリーンは非常に静かに、

 「サア、西富子爵、貴方の頬に降るその涙が、たとえ血の涙で有るにしても、貴方の今の苦しみは私の今までの苦しみに比べては、ものの数にも足りません。私は幾年月、死ぬるよりもっと辛い苦しみを耐えていました。」
 「でもありましょうが、私ももう充分後悔したから、許してくれても好いでは有りませんか。これ、夫人、コレイリーン、貴方は昔、私と愛し、愛された事は忘れましたか。一度は命までも捨て合うほどの仲で有ったでは有りませんか。その時のことを思えばーーー」

 言葉のまだ終わらないうち、イリーンは苦々しいほど冷淡に、
 「其の時の事は、皆貴方の気紛れでした。」
と言い返した。



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