巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume46

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.17

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              四十六

 助けて呉れと泣き叫ぶ春人の声を後ろに聞きながら、公爵夫人イリーンは木の間を潜(くぐ)り、枝葉を押し分け静かにその所を立ち去った。立ち去ったけれども、彼の春人の叫び声は容易には消えず、遠ざかるに従って微(かす)かに成って行ったが、その微かになるに従って我が耳のうちに響く神経の声は益々高くなった。

 一歩一歩、漸く道の有る林の、やや開けた所に来た。初めて日の光に照らされるイリーンの顔を如何(どう)かと見ると、細い口は綴じ合うかと思われる程堅く閉め、その唇に紅の色無く、頬は土よりも青くて、眼はきょろきょろと落ち着かない。嗚呼これが英国第一の美人と言われるイリーンか。これが肉あり血あり命ある生きた公爵夫人であるか。唯鉄を持って刻んだ冷たい人形のようだ。先刻この林に入って行ったその人と、今出て来るこの人とは、昼と夜程の相違がある。同じ人と思われ無い。

 イリーンがこの様に変わるのも無理では無い。怪我をした人を助けもせず、その自ら死ぬのに任せ、助けを呼ぶ声を聞き流して立ち去るのは、罪の中でも非常に恐ろしい罪だからだ。イリーンはこれを天の下した復讐であると言う。復讐は復讐であるが罪であることには相違無い。唯手を下して殺さないという迄である。

 やがて我が家とするサクソン宮の裏庭の入り口に着いたが、容易には歩み入る事が出来ない。今は午後の五時、先程山に入った時より凡そ小半日も費やしていた。狩に出た客は大方帰り尽した頃なので、我が青い顔を誰かに怪しまれるかも知れない。何とかして血色を整える術は無いかと、やや暫しそこに佇(たたず)みながら、我が身は何の罪も犯してはいない。唯助けるべきではない悪人の死を、助けなかった迄の事である。否(いや)天罰の行われるのを妨がなかった迄の事である。何の恐れる事があるだろうかと、強いて我が心に思い込んだが、鉄より堅くなった我が唇に、一点の笑みを浮かべることもできなかった。

 居間に入って暫し休めば、その中には神経も弛むに違いないと、我家ながら、他人の家に忍び入る様に密かに入り、庭を伝って漸く廊下に上る折りしも、忽ち、
 「ヤ、イリーン」
と声を掛けるのは、我が夫公爵である。
 避けるにも避け難く、その儘(まま)公爵に向かって立ち止まると、公爵は怪しんで、

 「オヤ、まあ、和女(そなた)の着物には・・・・」
 血が着いていると言われるかと、イリーンはビクリとすると、
 「大層塵が着いているが。」
  イリーンは直ぐには返事も出て来ず、我が着物を見回すのに紛らわせて、暫(しばら)くその顔を俯(うつむ)け、漸(ようや)く出来るだけ色を正し、
 「ハイ、頭痛がしまして、森の中を散歩して居ましたから。」
と答える声は、地獄の底から聞こえて来るようで、我が口から出たとは思われない。

 「何頭痛だと、成るほど色が悪い、もう直ぐ会食の時刻だから、それまで居間に行き休むが好い。」
 「ハイ、爾(そ)う致たしましょう。」
と答えるのがヤットであったが、更に気に掛かる所があるので、
 「皆様はもう、狩場から帰りましたか。」
 「皆帰って来たけれど、一人西富春人だけは帰らないから、李羅子が大層心配している様子だが。」

 イリーンは血色の無い我が顔の、更に火よりも熱いのを覚え、我が手が震えるのを止めることが出来なかった。公爵はそうとも知らず、言葉を継ぎ、
 「何でも春人は一同より幾時間も後に茲(ここ)を立ち、狩場に行ったという事だけれど、狩場で誰も春人を見た者が無い。」
 イリーンは辛くも調子を合わせ、
 「オヤ、それはマアー」
 「唯だ山番の一人が、山の中で彼の姿を見たとは言うけれど。」

 イリーンは又驚き、
 「ヘエ、山のどの辺で。」
 「ナニ、狩場から遠くも無い、ロワウードという谷間で」
 イリーンはその山番の全く誤りであることを知った。春人の通った道、春人の横たわっている所は、そのロワウードとは全く方角違いなので、番人は誰か春人に似た人の姿を見、春人であると思っただけなのだ。

 「併し、そう心配することは無い。彼は中々抜け目の無い男だから、我々の銃音のしない方角へ分け入って、独りで充分の獲物を仕て居るのだろう。この様な事には構わず、和女はサア休むが好い。益々顔の色が悪く見える。」
 イリーンは唯人を見ない一室に隠れるのを幸と思い、夫に分かれて直ちに我が居間へと退いたが、唯一人は人の前よりもっと辛い。血に塗(まみ)れた春人が恨めしそうに叫ぶ様子が目の前に浮んで来て、窓の外に吹く風の音さえ、彼の苦転(のたうつ)音かと思われ、耳の中には彼の叫び声が益々高く聞える。

 眠むっても夢に襲われ必ず寝言に露見するだろうと、彼が言った事は茲(ここ)の事だったのかと、思へば思うだけ愈々(いよいよ)恐ろしく、必死の思いで我が心を励まして、彼は我が身を辱めた大罪人であるぞ、彼の死ぬのは我が身の仕業では無くて天罰なのだと空しく口の中に繰り返えしたが、何の甲斐も無い。

 最早一刻も唯独りでは留まって居る事が出来なくなり、いっそ身なりを繕って客の居る所に行こうと、先ず着物を改めて客座敷へと出て行くと、一同が我が顔を眺むる様子は、日頃とは変わっている様に見受けられるので、まだ我が様子に落ち着かない所があるのだろうかと、平静でいられず怪しむところへ、第一に進んで来たのは春人の妻李羅子である。李羅子は心配に耐えられないといった面持ちで、

 「ネエ、夫人、春人が未だ帰りませんがどうしたものでしょう。私はそれが気になり、せめては貴女の優しい言葉で慰めて頂きたいと思い、貴女を尋ねて来たのですよ。何とか言って私の気の休まる様にして下さい。」
と言うのも泣き出さないばかりの声だったが、如何(どう)して李羅子の心を慰める事が出来るだろうか。我が知っているのは、春人が死に掛かって森の中に倒れて居る非常に無慈悲な事実であるのに、それを押隠して優しい言葉を出す事は、とても我が力の及ぶところでは無い。

 アア我が身は我が部屋にも、客間にも、唯一人も人の前にも、身の置く所が無いのかとイリーンは思った。


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