巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.7

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          五

 「ハイ、夫婦になります。」
とこれまでは唯この人と分かれる辛さから、熱心一図に言って来たが、この言葉が唇を離れると共に、忽ち恥ずかしさが込み上げて、パッと赤らむその顔を上げることも出来ず、春人(ハルンド)の胸の辺りにその額を押し当てて隠すばかり。
 春人は唯可愛さに我慢できない様に、その首を抱き、その背を撫で、

 「イヤ、そこまで私に打ち任せ、私を生涯の夫と定めて下されば、私はもう死んでもかまいません。ハイ、貴女の為には命を捨てます。夫婦と言うのは男女一代の身の大事で、それを両人(ふたり)の心だけで取り決めるのは軽はずみの様ですけれど、愛情の外に夫婦を結ぶものは有りません。愛情で固めたほど楽しく、堅く、幸いな夫婦は無く、親の意見や他人の知恵を借りたところで私の生涯に貴女より良い妻の有るはず無く、又貴女にも私より良い夫の有る筈は有りません。エ、譲様、貴女はそうは思いませんか。思うなら思うと唯一言返事して、私を安心させて下さい。そうは思いませんか。エ、エ」

と促すのに、嬢は恥ずかしさが益々増して、猶(なお)も垂れた首の底で、
 「ハイ」
と一言、蚊の泣く様に返事するだけ。
 春人の顔は唯笑みに満ち渡り、
 「それでは譲様、貴女と私は唯今よりして生涯離れない夫婦ですよ。どの様な事があってもこの約束は違いません。好(よ)うございますか。決して違いませんよ。」
と念を押され、嬢は又、
 「ハイ」
と答える。

 春人は全く安心して事を仕済ませた顔付きで、猶(なお)一層の熱心を言葉に込め、
 「是でヤッと安心しました。二度と貴女と分かれなくて済む事となりましたから、是から私の生涯は唯貴女の幸福を計るのみです。貴女も生涯今日のこの返事を決して後悔することは有りません。不肖ながら西富郷の西富家と言えば、貴族社会で五本の指に折られる程、由緒正しい家筋ですから、西富子爵夫人と言えば、昔から女王の次に立てられる程の威勢です。貴女が当代の西富子爵夫人になるのです。殊(こと)に貴女は子爵などと言う肩書きが無いにしても、充分上流社会を足下に平伏させる程の美しさが備わって居ますから、この美しさで子爵夫人となれば、紳士社会、貴夫人社会、皆貴女の奴隷です。貴女はここ十年と出ないうちに英国朝廷の第一の飾り物となり、外国の皇族が来ても、皇妃が来ても、総て貴女がその接待の役にに向けられます。いずれの国の公使でも、貴女の口から一言の挨拶を受けるのを、この上無い名誉とし、西富子爵夫人からこう言われたと、貴女の一言はその本国の朝廷へ報告せられ、貴女が一度着けた衣服は、一週間も経たないうちに全世界の流行を動かします。」

 口を極めて未来の楽しさを描くので、嬢は殆ど嬉しさに気も浮き上がり、恥ずかしさも半ば忘れて、春人の胸よりその額を上げた。盗む様に彼の顔を見上げると、その男らしい様は又一入(ひとしお)の力を現し、此(こ)の人の双手に抱かれ、双手の間に保護せられれば、山嶽前に覆(くつがえ)り大海後ろに翻(ひるがえ)っても、おそるに足らずとまでに思われたので、只管(ひたすら)夢の心地で、

 「早くその様になりたい事。」
 今は我が夫に物言う様に呟(つぶや)くと、春人も益々勇み、
 「そうですとも、早く婚礼してこうならなければいけません。」
と言い、更に何やら心配そうに、
 「ですが一つ貴女に断って置かねば成らない事が有ります。尤(もっと)も唯当分の中(うち)ですけれど、婚礼は誰にも披露せずに置きますよ。」

 嬢は言葉の意味を理解できず、
 「エ、誰にも披露しないとは?」
 「イヤ、誰にも知らさず、極静かにするのです。」
 「極静かに?」
 「ハイ、誰も知らぬ所で」
 「唯、私の父と貴女の極親しい親類の方が一人づつ立ち会っただけで?」
 春人は少しじれったそうに眉を顰(ひそ)め、
 「イヤ、誰にもと言えば誰にもです。父にも母にも、親類にも、誰にも知らさないのです。」

 「エ、エ、それは秘密の婚礼では有りませんか?」
 「イヤ、秘密と言えば何やら悪事の様に聞こえ、殊(こと)に秘密の婚礼と言えば、悪人が女を騙(だま)してする事のように、よく小説などには描いて有りますますが!」
 「イエ、私は小説などは知りません。唯父や祖母が何でも秘密にする事は良くないと、日頃から言いますから。」
 「イヤ、その秘密とは秘密が違います。唯当分の所都合が有るから、少しの間婚礼を誰にも知らさずに置くと言うだけです。婚礼前に知らせるのを婚礼の後に知らせるのです。何でそれが悪事でしょう。何でそれが不正でしょう。後で打ち明けて知らせさえすれば、決してその様なものでは有りません。一時の都合と言うもので、世を渡るには是くらいの都合をしなければ渡られません。まあ少し考えて御覧なさい。唯婚礼の披露を少し日延べすると言うだけのことでは有りませんか。」

 事も無げに言い消され、成るほど何の罪も無い唯少しの都合の様に思われるが、生まれたままの清浄無垢の心に、父母が家庭の躾(しつけ)で、幼い頃から日々に書き入れた善悪の深い区別は、一時目隠しする様に隠くされる事があっても、容易に消え失せるものではない。婚礼と言う身の大事を何故に父にまで隠さなければ成らないのか、理解できない所があるので、猶(なを)じっくりと考えながらも、

 「父に知らせても父は止めなど致しません。必ず喜んで承知します。」
 「イヤ、都合と言うのはその様な事では無く」
 「ではどの様な都合です。」
 「イヤ、貴女に言っても、充分には分から無いでしょうが。」
 「それでも言って聞かせて下さい。聞けば又気が済むかも知れません。」

 春人は声を潜め、
  「イヤ、是を思うと貴族に成るのは嫌になります。第一貴族と言うものは、昔から同じ貴族の家から妻を迎えると定めてあるので、それを破れば勘当です。親類中の相談で私を捨てて仕舞います。それ故貴女と婚礼するには、先ず誰も知らないうちに夫婦になり、もう切っても切れない事になって、その上で穏やかに親類を説き、そうして披露しなければなりません。それに又貴族の婚礼は、女王ビクトリア陛下の許しを得なければならず、それも貴族同士の事ならば、兼ねて陛下へ双方の身の上が分かっていますので、直ぐにも許されますけれど、一方が貴族でなければ、先ず私の親類から詳しくその身元を申し上げ、そうして許可を得なければなりません。その手続きに何年掛かるか分かりません。それだから誰にも知らさず、先ず両人だけで婚礼をして仕舞おうと言うのです。分かりましたか。」

 成るほど分かりは分かったが、だからと言って、この大事を如何(どう)して父に知らさずに置かれようか。春人の言葉を聞くに従い、嬢の赤らんでいた顔は次第次第に白くなり、その眼に愛らしい光は消え、涙が溢れて来るかと思われた。
 春人は又迫り寄り、
 「是だから、どうしても私の言う通りする外はないでしょう。」
 「だって、父に知らさないと言う訳には!」
 「如何あっても?」
 「ハイ、唯父だけには知らさせて下さいまし。」

 春人は断固として、
 「いけません。父だけに知らせるのは万人に知らせるのも同じ事です。」




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