巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume51

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.22

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               五十一

 アア、悪人の運未だ尽きず。天の下した復讐とばかり思って居たのに、彼れ悪人は我が飼い犬の為に助けられようとするのか、余りの事にイリーンは息も苦しいほどに動悸が高まり、我が身を支える事が出来なかった。唯一時に逆上して眼が眩(くら)み、耳響き、人々が何を言い、何をしているのかを見分けることが出来なかった。

 しばらくその首(こうべ)を垂れて宛(あたか)も悶絶した人の様に精神が遠くなったが、ややあって我に返りその首を上げて見ると、部屋中は鼎(かなえ)の沸き立つようであった。
 李羅子は絶息したと見え、客の半ばは目を丸くしてその傍にうろたえ廻り、残る半ばは犬を捕らえ、其の首から血の付たハンケチを取り外そうとしている。

 暫(しばら)くして我が夫公爵は、そのハンケチを取り上げて検分すると見えたが、やがて非常に驚いた声で、
 「イリーン、イリーン、一寸茲(ここ)へ」
と呼び立てた。さては春人が犬の首に結んだハンケチは、彼自分の品ではなくて我がハンケチだったのだろうか。我が身は彼の倒れた傍にハンケチを落としたのだろうかと、自ら招く心の恐れにイリーンは最早全く逃れられ無い場合と知った。

 だからと言って返事をしない訳に行かず、必死の思いで椅子から立つと、我が身の重いこと、千貫(3、750kg)の石を負(お)って居るようで、我が足は一歩も前に出ようとしない。どうしてそこまで進んだのか全く分らない。唯よろよろと公爵の許に立つと、陸軍大佐禮頓(レイトン)という人が、その犬を捕らえていた。我が夫はまだハンケチの血を眺めながら、

 「コレ、イリーン、最(もう)心配する事は無い。西富子爵は怪我をして、何処か森の中に倒れて居るには相違ないが、ベドが其処(そこ)を見出したから、此の通り春人がこのハンケチを犬の首に結び、我々の許に知らせに帰したのだ、成る程この犬は日頃から春人に好くなじんでいたよ。コレこのハンケチは春人の品に間違いあるまい。」

 見れば成る程男持ちのハンケチにして、その一端に西富のNの字と春人のHの字を縫い付けて有る。
 我がハンケチでは無いだけは幾分か幸せであったが、春人がまだ生きた儘(まま)で救はれれば、我が罪はどうして隠すことが出来ようか。

 彼の品であるか我が品であるかを問う場合ではない。兎に角も天より我が手の中に下した復讐は、又我が手から奪い去られたのだ。
 今まで彼の運命を我が手に握って居たが、今は我が運命を全く彼の手に握られる事と為ってしまった。

 イリーンは之を想って夫に何の返事もする事が出来ず、其処に立ちすくむと、この時大佐禮頓(れいとん)は、
 「兎に角、この犬を案内に立て、我々が其の後から隋(つい)て行けば、必ず子爵の倒れて居るところまで行くで有ろう。」
 「そうだ、非常に賢い犬だから、充分案内するに違いない。」
 イリーンは是だけ聞いて、耐えに耐えていたその身の力が尽きたのか、 

 「ウンー」
と一声叫ぶと共に、其処に気絶して後は何事も知ることが出来なかった。再び生気に返った時は、早や我が居間の寝台の上に居た。何人にか茲(ここ)まで運び入れられたものと見える。
 実にこの気絶がイリーンの身の幸いであった。もし気絶せずに居たならば、必ず発狂するまでにその心を苦しめたに違いない。生気に返りてイリーンは枕元を見回すと、二人の侍女が心配そうに我が身を守っていた。

 「オヤ、犬は、ハンケチはーーー」
 是だけが、イリーンの口を衝(つ)いて出た言葉である。
 「今迄公爵が貴女のお傍に居られましたが、西富子爵も捨てて置かれないと仰って、唯今、ここをお出なされました。もう多分犬を先に立て、山へ分け入り成さったでしょう。」

 この言葉に違わず、公爵は大佐禮頓と共に、幾人の人夫を従え、釣り台その他気付けの火酒など用意して、犬を案内に森を指し分け入ったが、犬は思いも寄らない方に向い、道の無い所へ進み行くので、公爵は少し失望の想いで、犬を引き留め、
 「是れベドや、貴様の智恵一つが大事のお客の命に係るから、道を違えずこのハンケチを結び附けた人の居る所へ案内せよ。」

 聞き分けたのか聞き分けないのか、唯尾を振って縄を引き切るほどの勢いで進み行くばかり。
 凡そ一時間ばかりにして、漸(ようや)く彼の秘密の場所に着き、死骸の様な春人を見出したので、公爵は第一に近付いて抱き上げると、その首ガクリと垂れ、何の力も無いようだったので、

 「エエ、残念な事をした、最(も)う事が切れている。」
 禮頓大佐は戦場で幾多の死骸に接した人なので、敢えて騒がず、
 「イヤ、死骸とは少し様子の違う所が有る。」
と言って春人の胸に手を当て、暫(しばら)く非常に静かに様子を伺い、
 「果たして心臓がまだ動いて居ます。如何(どう)か医者の来るまで生きて居れば好いが。」
と言った。更にその傷など検めて、
 「アア、可哀想に、銃が木か何かに絡まり、其の身が倒れようとする途端に引金が落ち、丁度自分の脇下で発したので、散弾が一粒残らず自分の肉に入ったのです。」

 こう言う中にも、怪我から今迄何時間彼が唯独り倒れて居たのかは、人々の怪しみ惑うところであったが、それよりももっと怪しいのは、彼の血に塗(まみ)れた指の一つに、女の婚礼の指環が、異様に輝いている一事であった。


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