巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume54

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.25

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               五十四

 其の罪赦(ゆる)すと言うイリーンの一言に、春人は初めて真に晴れ渡った思いがして、
 「是でもう過去(おわ)った事は何もかも忘れて仕舞い、真の友達になりましょう。」
と言った。

 イリーンは非常に落ち着いて、
 「ハイ、今までの恨みはこれで忘れますが、併し友達になるという事は出来ません。私と貴方とは互いに愛し合うか、そうでなければ憎み合う様に生まれて居るのです。愛しもせず、恨みもせず、唯親しんで友達の交わりを結ぶという事は、何しても出来ない所です。此の後、共に度々顔を合わす事があれば、過ぎた恨みが再び燃え上がらないとも限りませんから、茲(ここ)で双方の恨みの鎮まったのを幸に、是を二人の逢い納めとし、全くの他人と為って仕舞いましょう。

 この後もこの屋敷へ足踏みせず、又と私の目の前へ顔を出さない様に成さらねばなりません。その他私の臨む宴会へは、貴方は決して出ない事にしなさい。命の取り遣りまでした二人が、何して友達と為ることが出来きましょう。唯これ切り顔を合わさずに居さえすれば、自然と恨みも忘れましょう。この外に決して無難な道は有りません。」

 春人も暫(しばら)く考え、従順なること子羊の様に、イリーンに従って、
 「成る程そうです。これから再び貴女の目の前には出ないように致します。止むを得ず落ち合う様な事があっても、唯一通りの挨拶に止め、其の外に口を聞かずに済む様に私が勉めましょう。」
 「ハイ、是だけの約束で、貴女の罪を許します。」
 「では是が最後のお分かれです、如何か思い切りの為、一度貴女のお手を。」

 イリーンは無言でその片手を差し出すと、春人は奴隷が君主の足に接吻する様に、イリーンの手に接吻した。
 イリーンは是で茲(ここ)を立ち去ったが、この夜初めて安心してゆっくり眠る事が出来た。
 翌朝は春人も大いに元気附き、李羅子の喜びは大層なもので、枕辺に付き添って、離れることも出来ない様子だった。
 春人は怪我の次第を物語ると、
 「それにしても如何して先ア、公爵夫人の飼い犬が、貴方の倒れて居る所へ行ったのでしょう。」

 春人は夫人の「夫」の字も口に出さず、
 「イヤ、是が全く神の助けという者だろう。神が助けに送ったのだろう。アノ犬は日頃から私に慣れていて、私の顔を舐(な)め始めたから、それでハンケチを結び附けたのさ。」
 「まだ一つ合点の行かないのは、この婚礼の指環ですが、是が如何して貴方の指へ、」

 春人は少し返事に閊(つか)えたが、やがて何気なく、
 「是は山で拾ったのさ、怪我の記念に何時までも斯(こ)うして嵌めて居る積りだ。怪我して倒れて居る間には、様々の心が起こり、もし助かれば生まれ返った程の善人に成ろうと斯(こ)う思ったから、是が善人に生まれ返ったその記念(しるし)だよ。」
 「だって貴方は、今だって善人では在りませんか。」
 「イヤ、是よりも、又一層の善人に成りたいのだ。」

 これで何もかも治まったが、春人の怪我は容易には癒え尽さず、暫(しばら)くの間は英国中の噂と為ったが、イリーンはこれらの噂を聞くのが五月蝿(うるさ)く、それが充分鎮(しず)まって今迄の事を忘れられる迄、何処かに身を避けようと、夫公爵に旅行の事を請うと、公爵も最愛の妻が数日来何となく顔色が晴れないのを見て、病の元にでも成りはしないかと気遣って居た所なので、喜んで承諾し、屋敷サクソン宮は、春人の養生所として彼等夫婦に貸し与えて置き、直ちにイリーンの手を引いて欧州大陸に旅行に出かけた。

 旅行に半年余の月日を費やし、再びサクソン宮に帰った時は、春人も既に己の屋敷に引き移る事が出来る程に快(よ)く成った後で、其の上李羅子にも玉の様な男の子が生まれて居た。
 間もなく春人は元の通りの身体と為り、医者が生涯の廃者(かたわ)になるだろうと言ったにも似ず、何の廃疾(かたわ)ともならず、再び政治舞台に打って出る事と為ったが、イリーンと結んだ最後の約束は少しも違えず、又サクソン宮に来ないばかりか、イリーンの臨む宴会へは顔も出さなかった。

 勿論イリーンは交際場裏の女皇と言われる程なので、イリーンの行かない会合は無く、春人はその様な所に踏み入る道を絶たれたので、勢力ある人と充分な交際を結ぶ事が出来なくなった。今迄日の出の勢いがあった彼の運も、之が為に面白くなくなった。政治界に名も無く、勢力も無い人となり、果ては惜しむべき限りとは言え、一旦清き少女を欺いたその罪が自然に酬(むく)いたものなので、又仕方が無い次第と言う外は無い。

 実に天の罰は人の罰ほど目立たたないが、人の罰よりも確かにして又充分である。
 これに引き替えイリーンの勢いは実に現世に例(ためし)が無い程で、英国第一の美人と立てられ、又女皇に次いでの貴高夫人と崇(あが)められ、その姿は写真として、今やいずれの家の壁にも掛けて無い家は無い程である。

 イリーンは今は子も有り、夫公爵と共に無上の幸を受けつつ有り、憂鬱画家として知られ、かって笑顔を描いた事が無いその父ダントン氏さへも、今は笑顔を画く事と為り、彼の画名は益々高い。

嬢一代(終り)

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