巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.9

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           七

 世間を知らないイリーン嬢の心では貞女ほど世に貴いものは無い。日頃の父の言葉にも、お前の母は世に珍しい貞女だった。お前も後々唯貞女になることをだけ勉めなさいと言われたことは何度あったか分らない。辛いのを耐え、為し難きを為し、以って夫の意に従うのが貞女だと聞いては最早何をいっても始まらない。父にも隠そう、世間にも隠そう。隠して只管(ひたすら)に春人(はるんど)の意に従い、天晴れ貞女の一人に数えらるようになると思えば、今迄気掛かりで仕方がなかった事も気に掛からず。辛かった事も辛くはない。更にこの上に百倍辛い事になっても、溜め息一つ吐かずに、仕果たそうと決心したのは、世にも健気なことだが、悲ししいことには嬢の心は底の底まで欺き尽くされ、善と悪との境目を見違えたのだ。

 春人は更に嬢にこの決心を深くさせようとしてか、感心の色を表に装い、
 「イヤ、女の身にとり貞女と言われる程の名誉は又と有りません。どの女でも貞女に成りたいと思うけれど、貞女になるには気に染まないこともしなければならず、辛く悩ましいことも行わなければならず、それが辛さに大抵の女は、貞女と言われる迄に行かずに終わります。」
と言い、更に又、

 「その代わり詰まらない欲や詰まらない楽しみに耽(ふけ)るのとは違い、我が身はこの様な辛い想いを耐え、他人に真似の出来ない苦しみをしてまでも貞女になると、こう思えば、その辛さが却って楽しく、辛ければ辛いだけ益々辛抱がし易くなります。」
などと言い、只管(ひたすら)、嬢の心を励ますので、嬢は愈々(いよいよ)その決心を堅くして、

 「それでは貴方の言葉に従い、是からどうすれば好いのです。」
 「イヤ、どうせこの土地で婚礼は出来ませんから、ロンドンに行きましょう。」
と言って是より父には、或る人と婚礼するため暫(しばら)く他郷に行きますので、少しもご心配には及びません。そのうちに立派な貴夫人となって帰って来る旨の手紙を認め、明朝夜の明けないうちにこの所へ忍び来たならば、直ぐに誰にも見られない様にロンドンへ連れて行って遣ろうなどと、駈落ちの手はずを事細かに語り出したので、嬢は事の益々重大なことに、一度は驚いたが、今から既に驚くようでは到底(とて)も貞女には難しいなどと、言葉非常に巧みに説き付けられ、済みません済みませんと思う心を胸の中で押し潰し、終にその意に従う事となったのは、仕方が無い成り行きと言う外は無い。

 この夜は家に帰った後も一間に籠もり、春人に言われた通り、父に宛てた二通の詫び書を認め、之を我が居間にある机の引き出しに納め置いて寝に就いたが、気にかかることばかりで眠ろうとしても眠られず、自分が忍び去った後に、父と祖母とが如何ほど驚くことだろうと思うと、一層春人との約束を破ろうかと思う事も度々だったが、彼の人と別れて如何して生涯が送られるだろうと思い、さらには後々西富子爵夫人と言われて、社交界の女王とまで立てられる栄華を思えば、嬉しさも嬉しさである。

 これが貞女の道と言う励みの心も胸にあり、父の一時の驚きは他日出世して帰って来るその時の喜びで消えるに違いないなど、彼是考え廻し、漸(ようや)く最後の決心を決めた時、明方の四時の時計を聞いたので、其の儘(まま)密かに起き出し、勝手から馴れた出口の戸を開け、誰にも知られず忍び出たが、まだ春人との約束の時間には早いので、先ずここから遠くはない母の死骸を葬ってある墓場に行き、生きている人に物言う様に、事の次第を母の墓に向かって語り、生きている父には隠したけれど死んだ母に打ち明けたので、たとえ我が振る舞いに罪があってもその罪は軽くなるだろうなどと、一人自ら慰めて、やがて約束の堤に行くと、春人は既にここに居た。手を引きあって停車場に行き、一番汽車でロンドンに向かった。

 汽車は勿論上等室で、中に乗って居る三、四人の紳士は、いずれも春人を知っていると見え、子爵、子爵と敬う様子に、嬢は早や、社交界の入り口にまで登った様な心地して、昨夜からの心配も大方忘れ、窓を隔てて目新しい景色などを眺めるうち、汽車は漸くロンドンに着き、その身は非常に立派な旅館へと連れて行かれた。

 春人は嬢に向かい、婚礼は勿論人知れず行うので、寺院にてその式を挙げることは出来ない。長老の私宅に行って唯儀式だけを済まし、その上で直ちに蜜月(ハネムーン)の旅に上ろうと言い、少しの間嬢をその旅館に残して置き、自分は買い物にと行ったが、やや有って一襲(ひとかさね)の衣服を買って来た。これを嬢に纏(まと)はせたので、嬢は纏(まと)ったまま鏡に向かって眺めて見ると、衣類は嬢が見た事も無い立派な織物に、数多の飾り物さえ付属していて、我が姿が見違えるほど麗しくなったので、嬢は嬉しくてたまらず、何事も唯春人が言うが儘(まま)に任せて置いたので、春人は嬢が手を取り、サア、婚礼の場所にと言い、再び宿を出て行った。

 外には早や一輌の馬車があって、嬢と春人を乗せるや否や、何処へとも方角も分らない方に向かってきしり出で、凡そ一時間ほどを経て、市街を離れ、田舎びた道に入り、狭い別荘かとも思われる家の前に留まった。
 ここは何処と嬢がまだ問はないうち、春人は嬢に向かい、これが或る寺院の長老の住居だと言い、共に降りて内に入ると、兼ねて待ち設けて居たと見え、書斎とも言うべき一室に通された。この様な静かな所で、何の栄美なる儀式も無く、婚礼を済ますかと思うと、何とやら心細い気にもさせられるけれど、それらの事は今来た馬車の内で、春人に充分説き含められた事なので、今更敢えて驚かず。婚礼が済めば蜜月にどのような所に旅するのだろうかなど、後々の楽しさを夢の様に自分の心に描くうち、長老は入って来た。

 見れば春人より二、三歳上だろうかと見受けられる同じ程の若紳士で、顔に険しい所がある。神に仕える長老だとは受け取り難い所も有ったが、長老でない者を長老と言う筈が無いので、嬢は強いて安心しその儀式を待って居た。




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