巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume9

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.11

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              九

 かくて春人(はるんど)はイリーンと共に、宛(あたか)も夜逃げの如くパリを立ちローマ府に移り、ここでも又第一等旅館を宿とし、翌日は一日名所を見物した。
 やがて夜に入り食事も済み、旅館の運動場に出て散歩して居ると、同じこの宿の客だろうと思われる一紳士、つかつかと春人の傍に寄り、
 「オヤ、西富子爵、珍しい所でお目に掛かりましたなア」
と挨拶するのに、春人は一旦ビクリと驚いたが、更に空々しさを装い、

 「イヤ、私は少しも貴方を知りませんが。」
 「何だ、僕を知らぬ、こっちでは覚えているのに。そっちですっかり忘れたとあっては余り心持ちの好いものではないが、旅は道連れと言う者、これからは昔の通り懇意にしようではないか。コレ西富君、良く僕の顔を見てくれたまえ。一昨年、君と一緒に大学を卒業してから、未だ見忘れられるほど年は取らぬつもりだが。」
と言い、灯光(あかり)の方へ顔を差し向けれど、春人は更に知らない顔で、

 「それは何かの間違いでしょう。私は貴方を知らず、又貴方の言う西富子爵とやらでは有りません。従って大学を卒業した事などなお更有りません。」
 「オオ、コレは驚いた。君が西富子爵春人君で無いと言うのか。」
 「私は英国の一商人、瀬川と言う平民です。子爵と言われるのは有り難いが全くの人違いです。」
この様に言い切って、呆れる紳士に再びと振り向かず、其の儘(まま)イリーンの手を取って自分の部屋へ引き込んでしまったので、イリーンは異様に思い、

 「貴方は何故、人違いだなどと仰りました。」
と問うに、
 「ナニ、西富子爵だと言っては直ぐにお前の事を問い、如何(どう)か夫人を引き合わせてくれと言って、遂に婚礼の秘密が現れるからサ。」
と答え、更に、
 「この様な所に長居をしては、何時化けの皮が破れるかも知れない。」
と言い、この翌未明に、又も逃げるが如くここを立ち、フロレンス府に移った。

 フロレンスは伊国(イタリア)の有名な一都会とは言え、パリ、ロンドンの繁華に慣れた春人は一週間を経ないうちに早や退屈の色が見えて、ロンドンほど都合の好い所は無いと言い、頻りに帰りたい様子なので、イリーンは其の意を察し、もう蜜月の旅も充分故、好い加減に切り上げませんかとの意を相談すると、春人は一も二も無く賛成して、直ぐにロンドンへ引き返したのは、初めこの地を立ってから凡そ七か月の後であった。

 西富子爵の家と言へば、毅然たる城の様なもの、西富郷に在るが上に、ロンドンにも立派なる屋敷ある。しかしながら春人はイリーンを其の家に連れて行かず、町の外れの静かな所に閑雅なる別荘を借り入れ、ここに下女一人下男一人と共に、イリーンを住まわせ、其の身は一周七日のうち三日はロンドンの屋敷に帰ると称し、ここに留まるのは毎週五日間だけなので、イリーンは初めから何となく物足りない心地して、この様に家の外に隠されて居るほどならば、夫婦にして夫婦に非ず。何とやら世に言う囲い者の趣きがあり、甚だ其の身に好ましくはなかったが、唯春人が我が身を大事にする事は一方ならず、時々は共に買い物に出る事も有り、ロンドンの屋敷から帰る時などは必ず高価な品物を調(ととの)えて来て、イリーンの心を慰めるので、このようにせられるのを猶不足に思っては勿体無い、其のうちには婚礼を披露する時が来て、我が身は西富子爵夫人として世に出される時があるに違いないと、只管(ひたすら)其の時だけを焦がれ待っていたが、幾週幾月を過ぎても、春人は一度も披露の事を言わない。

 のみならず初め一週に四日間は必ず留まると決めたものが、次第次第に少なくなり、果は一週間全く来ないで終わる事さえ有る程となったので、イリーンは機会を見て、彼の披露の事を問い、又何故来る事が稀になったのかなどを問うと、春人は今迄に無い邪険な言葉を使い、或いはその様な都合は女の知る事では無いと言い、或いは嫉妬を焼く女は大嫌いだなどと、とんでもない返事をし、言葉を柔らかにして問い返せば、訳も無く腹立てて立ち去るなど、はしたない振る舞いも多くなったので、固より生涯を誓った夫婦の間に、心の変わる筈も無いので、全く何か忙しい用事が有る為、一時気の短くなっただけの事だろうと、強いて自ら思い直した。

 或る日の夕暮れ、春人の脱ぎ捨てた衣服の衣嚢(かくし)に、婦人から贈られたかと思はれる一輪の椿の花、萎(しお)れた儘(まま)に残るのを見たので、流石に女の気も早く、イリーンはポッと頬を赤くし、其の花を持って春人の傍に行き、
 「貴方の衣嚢からこの様な物が出ましたが、是はどうしたのです。」
と柔らかに問掛けたのに、春人は宛もかってローマの宿屋で友達を言い紛らわせた時の様に、空々しい顔となり、

 「どうもしないよ、入れたから衣嚢の中に有ったのだろう。」
 「イエ、入れたから有ったのは分かっていますが、如何してこの様なものをお入れなさったのです。誰の手から受け取りました。」
 春人は眉を顰(しか)め、
 「ソレ、そう言って問うだろうと思っていた。誰の手からーーーその様な事が一々覚えて居られるものか。自分で折って入れたのかも知れず、或いは花屋に出遭って買ったのかも知れずサ。」
と言葉の終わりは一種の嘲(あざけ)りとなったので、イリーンは初めて色を青くし、
 「だって一日衣嚢へ入れ、胸に押し当て持っているには何か仔細が有りましょう。貴方がよほど大事にしていたものとしか思われません。」

 詰め寄る言葉の勢いに、春人の眼には穏やかでない光を現して来た。



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