巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou100

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第百回 芽蘭男爵の現況

 芽蘭(ゲラン)男爵が此の様に書いた紙は、地図調整の為用意して居た帳面中の一枚を裂き取った物と見え、通例手帳の紙よりは二倍も廣い大版紙である。其の表に細く認(したた)めた筆の蹟(あと)、初めは字画も明確であったが、次第に手先が疲れた様に震い曲がりなどした所が多いのは、如何にも病余の身を以って、辛くも書き続けた様子まで目の前に浮かぶ心地がした。

 平洲は読み続ける。
 「余は通訳、従者、人夫、護衛兵をも連れて居たけれど、此の土地に入って大抵は殺された。実にドモンダは野蛮中の最野蛮、恐らくはアフリカ全土を尋ねても、これ程まで人の心を思いやらず手荒く扱い、残忍な人種は又と無い。

 だから殺されずに生き残った者までも、余を捨てて逃げ去った。余は真に唯の一人である。千里万里の外にある絶域に、真の一人と為る其の辛さ、悲しさ心細さは故郷の国の人々が想像さえも及ばない所である。けれど是れは天罰である。妻を捨て家を捨て、旅行の快楽を貪ろうとした余の振る舞いは、今更思えば義理人情に欠けた者である。

 仮令(たと)え目的は学術上の発明に在りといえども、己の心を恣(ほしいまま)にした事は同じである。今と云う今になって思い当たった。この様な憂き目は総て自ら招いた者である。余自身はこの様に思って断念(あきら)める事が出来るが、余に捨てられた妻は今は如何しているだろう。

 余をきっと蛮地で死んだものと思い、恨みもし、泣きもして居るに違いない。道理である、道理である。余はまだ生きているとは云え、死んだのも同様である。勿論、故国へ帰る事が出来る見込みは無い。今は幸いに病が癒えたけれど、食物を得る方法さえ無い身で、何時まで健康を維持することができるか。

 再び烈しい病に罹かるか、さもなければ恐ろしい人喰い人種の牙に掛り、此の世を去ることは眼前に在る。余は真実に我が妻が、若しやとの仇し頼みに引かされて、長く心配した末に絶望するよりも、今既に余を死んだ者として一思いに悲しみ尽くし、何事も断念めて余命を幸福に送る事を祈るものだ。

 だから余は僅かに残る命を幸いに、妻及び故国の人々一般へ暇乞(いとまご)いの書を認めて遺(のこ)して置きたい。ここで認(したた)めても、妻及び故国の人の目に触れる見込みが無いので、認(したた)めない方が勝(まさる)かは知らないが、否、否幸いに此の小屋を守る老黒人、野蛮人丈に迷信深い質なので、此の書を壁に貼り附けて置けば、他日幸いを呼び寄せる禁厭(まじない)と為るに違いないと言っている。

 彼れ深く禁厭(まじない)をを信じて居るので、此の様に言うからは、必ず大切に此の紙を貼り付けて保存するのに相違無く、其の中に五年十年、将(は)たまた二十年の後になっても、地理学が進むに従い、ここに入り込む文明人が有るかもしれないので、此の書が若しその様な人の目に触れたならば、故国へ持ち帰られ、妻や故国の人に余の暇乞(いとまご)いを伝える便りと為るだろう。

 縦(よ)しやその様な人の目に触れなくても元々である。
 だからと云って何を記そうか。余は病の為め何事も忘れ尽くした。待て、待て、何事か微(かす)かに記憶に残って居る。そうだ、余は鐵荊(テツバラ)の支配地から、頓黒(トングロ)と云う者と初め二十名の勇士を引き連れて此のドモンダに入り込んだ。

 是れは第一の過ちであった。勇士の厳めしい姿さえ無かったならば、余はここのの原住民に、これ程までも憎み苦しめられなかったに違いない。戟(ほこ)を持ち槍を持っている彼等の武装は、直ちに此の土地の者から敵と見られる元と為り、到る所で攻められ苦しめられ、従者或いは死し、或いは逃げて、余は唯だ一人捕えられ、捕虜から更に下って奴隷とはせられた。

 艱難は覚悟の上なので捕虜であっても奴隷であっても、今更驚かずとは云え、、毒蛇よりももっと残忍な此の人種の奴隷となっては、到底耐えるべき道は無い。而も奴隷を使う為に奴隷とするのでは無くて、苦しめて苦しめて嬲(なぶ)り殺しにする為めに奴隷にしたのだ。

 だから余は朝晩夜昼の分かち無く、赤道直下の大地に投げ出され、食を得ない事が幾日あったか。寄って蝟集(たか)って余を叩くも有り蹴るも有り、一歩でさえも余を無事には歩行させない有様だったが、余は更に耐え忍ぶ心があった。禽獣に均しい蛮族、人を遇する道をも知らない奴輩(やつばら)と思えば、腹も立たない。」

 妻を捨て義理人情に背いて来た罰と思えば、人をも恨まず、唯だ命さえ無事ならば、その中に此の土を逃げて去る機会も有るだろう。最初から此の旅は、北の方のシュウエインハース氏が探険した果てと、南方李翁《リビングストン》其の他の探った土地との間に在る暗黒未知の地を探り、南北両方の探険を繋ぎ合わそうと云う事に在るのを以って、たとえ死する迄も一歩でも南方に深入りして死のう。

 ここでは未だ死に難しと、常にこの様な決心を心の底に置いていたので、余は一切の攻め苦をば目を閉じて受けて居たが、悲しいことに余の心はまだ耐える事が出来たが、余の身体、余の健康は之に耐える事が出来ない事と為り、余は意識不明となった。

 余は死んだ。然し全く死人同様、何の感じも無い身と為り、蛮族から死人と認められて、道端に蹴り捨てられたと云う事である。それから今まで凡そ四ケ月余りかと思われる月日を、全く人事不省の間に過ごしたりと見える。

 アア余は真に如何にして助かったのだろうか。



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