ningaikyou109
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第百九回 女護(にょご)の国
芽蘭(ゲラン)男爵、今もまだ此の国に在るや否や。是れは一同が第一に知り度いとする所なので、夫人が先ず之から問うのもその心情は自然である。
巖如郎は、
「否、長い以前に既に此の国を出発した。今は余の領地内には居ない。」
と答えた。
夫人は非常に失望した様子で、その身を支える事さえも出来ず、倒れる許りに蹌踉(よろめ)いて、僅かに老兵名澤に抱止められたが、是から後、夫人は日頃の落ち着きにも似ず、非常に忙がしそうに下の条々を問掛けた。
その様は宛(あたか)も胸に溜まった心配を、我れ知らず一時に吐き出したかの様だ。
「それでその白人は無事に此の国を立ち去りましたか。今以て生きて居ますか。」
「その事だが、此の国を立ち去る時は無事であったが、その後如何になったのかは少しも便りが無い。」
と答えた。
是等の問答は一々通訳の口を経る者で、初めのうちは名澤と老黒人と両名の重訳であったが、漸(ようや)く名澤が此の国の言葉に聞き慣れ、一人で通じる事が出来る事とはなったが、夫人はまだ通訳を待ち遠しく思う程であった。
「それで、その人の出発は今から何れほど以前であったのでしょうか。」
巖如郎は稍(や)や久しく瞑目して考えた末、その人が立去ってから、六回の新月を数えた。」
だとすれば男爵は今から六ケ月以前まで、此の国に居た事になる。男爵と一同との距離は凡そ一年ほどになるに違いないと思っていたが、今はその半分ほどと為った。
「その人はどちらの方に向けて出発しましたか。」
「南方に向かった。あの青い山の方へ。」
と言って遙青山を指さしたので、一同は振り向いてその方を見ると、ここに来ては最早や遙青山もそれ程には遠くない。
数日の旅で達する事が出来る許りに見える。
夫「此の国の南に在る国は何と云いますか。」
巖「遊林台と云う。」
「その国の王は何と云う名ですか。」
「その国には王は無い。輪陀と称する女王が之を支配している。依って一名輪陀国とも云う。」
此の絶域に女王の支配する国があるとは、是れは或いは噂に聞く女護の洲(しま)、一名黒天女の国では無いかと寺森医師は思うのだった。
「その国は大国なのか。」
「そうだ、余の国よりも大きい。その区域は南の方遙青山の麓まで達している。」
此の時まで無言で聞いて居た平洲は、夫人の疲れた様子を察し、自ら問答の役を引き受け、
「それでその女王は果たして我等の父を国境に入れ、御身の様に客分として迎えたと思われるだろうか。」
余はその邊まで知ることは出来ないが、遊林台の国は甚だ厳重である。その女王輪陀と云う者は、実に綿密に国を治めて居る。故に余が国の如きは隣国と云うことも有り、且つは同盟国ではあるが、余の国人は容易にはその国に入り込む事を許されて居ない。」
「それでも吾等の父は、その国に入り込む事が出来たのだろうか。御身はその白人が既に南方へ行ったと云い、又此の国には居ないと云ったのではないか。此の国を去って南方へ行くには、その輪陀の国へ入り込む外に無いのでは無いか。」
「その通りだ。その国へ入り込む外は無い。故に余は切に白人を留めたのだ。しかしながら白人は聴かずに進んだのだ。余の考えでは、白人はその国に入り込むや直ちに捕えられて、虜とせられたのに違いない。」
「何故にそう思うのだ。」
「その後絶えて音沙汰が無いからだ。白人は若し進む事が出来なければ、余の国に帰って来ると約束していた。然るに帰って来ないのは捕らわれた証拠である。或いは殺されたかも知れない。」
「それとも遙青山を越えて、更に先まで進んだことも考えられる。」
「否、遙青山は地の果てである。あの山の先には決して行く様な所は無い。」
さては此の土地の人迄も、あの山を地の尽きる所と思って居ると見える。彼は山の先には湖水がある。湖水の先には残日坡(ザンジバル)から来る道がある事は、南方から此方へ向かって進んだ探険家が、皆説く所であると平洲は心に思ったが、この様な事を言い争っても仕方が無いので、平洲は更に、
「若し吾等の父がまだ生きて居るならば、吾等は輪陀の国まで入り込み、父に逢うばかりだ。」
王は此の言葉の大胆であることに驚いた様子で、
「何と云われる。御身等も又輪陀の国へ、アア白人は命知らずである。輪陀国へ入り込めば、捕らわれるか殺されるか其の一を免れない。」
「しかし吾々は賄賂を以て安全に進む事が出来る。」
賄賂と云う語は、此の国の言葉に無いとの事で、名澤は暫(しばら)く老黒人に相談したが、終に適当な訳語を得なかった。止むを得ず、
「物を贈って輪陀女王を歓ばせ、その礼として通して貰らおうと思う。」
と非常に迂遠(まわりとお)く解き明かすと、
「物を贈ったとて厳格な女王が応じる筈は無い。」
と答えた。
「然らば吾等は兵力を以て進むだけだ。」
王は又驚いて、
「アア御身等は輪陀国を知らない者だな。輪陀の国に向かって兵力は何の功も無い。見られる様に、余の国は大国で兵も甚だ強いが、輪陀の国に向かっては如何ともする事が出来ない。止む無く年々貢を贈って女王を宥(なだ)め、僅(わず)かにその逆鱗に触れる事を避けるだけだ。
余の国の強兵も輪陀国の名を聞いては戦慄する。若し逆鱗に触れる事が有ったらば、余が国は直ちに粉砕せられるに違いない。」
さては此の南隣はアフリカ第一等の強国と見える。遙青山にその様な強大な国が在るとは、実に今までの探検家が思いも寄らない所である。或いは芽蘭男爵もその強国である事を聞き、更に探る為めに進んで行ったのかどうかは知る事が出来ない。
「真に輪陀国の兵はそれほど強いのか。」
巖「否、余等が恐れるのはその兵では無い。美人を以て組織した、その娘子(ろうし)《女子》軍である。」
と云う。実に意外な事も有る者である。輪陀の国は女を以て王と為し。更に女子を集めて娘子軍を編成して、国を護らせているのだろうか。そうだとすれば本当に女護の国である。
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