ningaikyou121
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
since 2020.8.14
a:181 t:2 y:0
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
第百二十一回 救出は無理だ
事情が此の通りだとすれば、男爵が再び逃げ出す事は叶わないと、全く断念して、その地の土となる決心を起こしたのも無理は無い。平洲は読み掛けて、
「アア実に気の毒だ。」
茂林も
「そう決心する外は無いから、成る程決心はしたで有ろうが、何れ程か心細い事であろう。」
寺森は、
「しかしそう決心したのは、外から助けて呉れる人が無いからの事。吾々が愈々(いよいよ)救い出すとすれば、不幸の境遇もそれ切りで終わるのサ。」
平洲は更に下文を読む、
「逃げ出す望みは全く絶え、この様な絶域の土と為る事に決したのも、是れは余が家を捨て妻を捨て、義理人情に外れた行いをした罰なので、自ら招いた禍いである。今更誰をか恨もうか。
心細くもこの様に決心した余をば、故々(わざわざ)救い出す為め、萬里の遠征が企てられたとは、余に取って身に余る大幸である。余は諸君の厚意を想い、有難さに手が舞い足を踏みだしたのも知らない。又謝する言葉をも知ら無い。アア余は最早や死すとも残念には思わない。
余は満腔の誠意を以て諸君に謝し、且つ切に諸君が、余の救い出しを想い止(とど)まる事を、請わない訳には行かない。余を救い出すことは、到底人間の力では出来無い事だからだ。
遠征隊にはきっと兵も有るだろう。武器も有るだろう。しかしながら兵も武器も此の残酷な国に向かっては何の功も無い。余を救おうとして此の国に入り込めば、ただ余を救う事が出来ないばかりか、諸君も共に鏖(皆殺し)にせられるに違いない。
若し萬に一つも、助かるべき見込みが有れば、余は懇願しても、諸君の助けを請うところでは有るが、悲しい事にはその見込みが全く無い。助かる見込みが全く無いのに、余はどうして諸君の様な恩人に、犬死させることが出来様か。諸君が此の国に入り込む事は犬死の地に入り込む事なのだ。そうして余も同じく殺されるのだ。
諸君自らも死し、余をも殺すより、余自ずから断念(あきら)めた様に、
「芽蘭男爵は到底救(たす)ける道の無い者」
と断念(あきら)め、此の国へは入り込まずに帰国せられよ。
帰国して諸君も助かり、余をも此の国で運命に従って、天然に死なせる事が最善だ。」
芽蘭夫人が此の書を読んで泣き崩れたのも多分は是等の文句で、夫の境遇を思い遣り、その果敢無(はかな)さを察しての事に違いない。
「余は更に諸君を断念させる為に、此の国の有様一般を記そうと思う。に此の国は全アフリカ中で、他に類を見ないほど残酷無惨な習慣が有り、又その残酷無惨を、充分に行う事が出来るほど強猛な国である。
国人唯人を殺す事を喜んで、日々の務めは殺人の手段を講ずるに在る。
特に最も恐ろしいのは女子を以て組織した美人軍である。何時の時から始まった習慣かは知らないが、女子十二歳に達すれば兵に徴せられ、最も厳重なる操練を受けて、その身体と筋力とに非常な発達を現し、十七、八歳に及んでは、身を労して疲れ事を知らない。
危うきに臨んでも怯(ひる)む事を知らない。傷を受けても痛みを訴へず。鉄石の様な身体と為り、しかもその挙動の敏捷(びんしょう)にして自在な事は譬える物も無い。足は鳥が飛ぶ様に軽く動き、手は左右とも剣を振って稲妻のようだ。この様にして美人軍に組み入れられた者は、今は八千人ある。
その武器は孰(いず)れも毒汁に浸した物で、之に触れた者で死なな者は無く、鎧には鋭い針があり、如何なる敵も近づく事が出来ない。近づけば必ず殺される。しかもその訓練と規律との正しい事は驚くばかりだ。少し怠惰の色のある者は、容赦も無く死刑に処せらる。そうして又、一方には賞を以て奨励する道が有る。
賞とは婚礼を許す事だ。是等の女子は戦いに臨み、敵を幾人か屠(ほふ)れば、初めて夫を授けられる者にして、夫は即ち女子の勲章である。
美人軍は皆此の勲章を熱望して現役の苦しさを知らない。
不幸にして敵を殺す事が無い者は、何時までも独身として老いる事になるので、戦いに臨む事は美人軍の何よりも望む所とし、一旦許しを得て夫を持てば、現役を免ぜられて、宛(あたか)も平和を取り締まる行政警察官の様に、国内の所地方へ配付せられる。
此の許しを得ない者は厳重に監督され、殆ど男子と言葉をも交える事が出来ない。
此の美人軍は今から数代以前に組織せられ、今の女王の代に至って最も完成した者だと云う。此の国は古来から強国では有ったが、美人軍が現れてからは、一層その強さを増し、殆ど無敵の有様なので、自然に女の威も振い、終に男子を凌駕して、女子を国王と為すに至った物である。
今の国王輪陀(リンダ)と云うのも、美人軍の現役を最も見事に勤め果たした者だとの事で、国中の尊敬は非常に深い。男子は唯だ朝廷の下役と、地方の一部の長官に用いられるに過ぎない。
この様にして美人軍の勢いは、年々に進む者なので、たとえヨーロッパの精兵を以てしても、之を破る事は出来ない。
之に敵する事は死神に敵する事だ。
a:181 t:2 y:0