巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou124

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.8.17

a:220 t:2 y:0


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

        第百二十四回 貴方方とはこれまで

 死すべき時に死ななければ、死に優る恥じがあるとは実に平洲と茂林と両人の今の身である。進んで女護(にょご)の国に入れば、美人軍に殺される事十中八、九迄は確かであるが、退いて帰国すれば世界の物笑いと為り、知己朋友に合わせる顔が無い。

 此の旅行を企てた大目的も芽蘭(ゲラン)男爵の一通の手紙で掻き消されたのに同様なので、両人は進んで死ぬ外は無いと、早くも心の中に決し、口には唯だ男爵を救うだけだと言うが、実は我が身を捨てる事に在る事は言わず語らず察し合うだけ。

 幸いにして男爵を救う事が出来れば、最初の目的は消えるが、まだ男子の面目は繋がるに違いない。若し救う事が出来なければ死ぬ以外何の道があるだろうかと、胸にその決心を疊んで両人は芽蘭夫人の所に行くと、夫人は最早や泣く丈泣いて、涙も尽きたと見え、黙然と唯だ考えるばかりだったが、両人の姿を見て忽(たちま)ちに居住まいを正し、

 「貴方がたは男爵の手紙をお読み成さったか。」
と非常に落ち着いて問うた。どうやら夫人は死すべき時が来たのを知り、覚悟を決めて全くこの世の望みを絶った様子であった。二人は此の様子が何とも言えず胸に迫って、
 「ハイ」
と答える外一語をも発する事が出来なかった。

 夫人は却(かえ)って中々に雄々しい所があり、騒ぎもせずまた泣こうともせず、相も変わらぬ落ち着いた調子で、
 「愈々(いよいよ)貴方がたとお分かれの時が来ました。」
と云う。

 両人は此の一語に愕然とし、
 「エ、何と仰有(おっしゃ)る。」
と左右から同時に問うのに、夫人は驚かず、何の不思議も無い極めて自然な事柄を説明する様な語調で、

 「アノ手紙をお読みに成れば、芽蘭男爵の妻として、私の務めは明白です。ここで貴方がたと別れなければ成りません。ハイ今まで数知れない艱難《苦労》と危険を掛け、長がの道中を守護して下さった御両所の厚意を謝し、ここでお分かれを申すばかりです。謝すと言っても言葉では謝し尽くせませんが、無事にパリに帰り着く時が有ったら、その時に改めてお礼を申し上げます。」

 平洲は、
 「エ、貴女は私共をここに捨てて、単身で男爵の居る国へ進み入ろうと云うのですか。」
と問い、茂林は、
 「エ、エ、我々にここからパリへ帰れと仰るのですか。」
と同じ様に問うた。

 夫人は無言の中に、
 「そうです。」
との意を示したので茂林は躍起となり、
 「成る程貴女の芽蘭男爵の妻である務めから云えば、この上私共と一緒に旅行する事は、穏やかでは無いかも知れません。だからと言って、ここで吾々が何うして貴女を捨てられましょう。別に危険と云う程の危険も無い今までを一緒に来て、愈々(いよいよ)守護の役目が必要だと云う是から先を守護しないとは、ここまで来た意味が分かりません。」

 「イヤ夫男爵の手紙に依り考えますのに、如何なる守護を引き連れて進んだ所が、到底敵の力に勝つ事は出来ず、人数が多い丈却って危険を増す様な譯ですから、私唯だ一人ならば、男爵が単身に入り込んだと同じく、敵も私を恐れるべき者とは思わないでしょうから、それ程まで気にも留めないでしょう。だから唯だ怪しまれる位で、別に危い事も無いでしょう。若し危い場合には、木の蔭に身を隠しても済むと云うものです。」

 平「では全くの単身で。」
 「イヤ単身とは云う者の、帆浦女の外に案内兼従者として通訳亜利、老兵名澤、此の三人を連れ都合四人で参ります。唯四人であれば、たとえ囚(とら)われた所で、その場で殺される事は無く、必ず捕虜として輪陀女王とやらの王宮へ送られましょう。私の思案は此の通り定まって、もう動きません。」

 真に動かない決心の様に、力を込めて云い切ったので、二人は今更の様に夫人の凛然(りんぜん)《態度がきりっとしていてりりしい様子》たる気質に感じ、暫(しば)しは返す言葉も無かったが、やがて、
 茂「何故亜利と名澤の代わりに、私と平洲とをお連れ成されません。」

 「ハイ一旦はそうも考えましたが、亜利と名澤は一時の雇い人ですから、若し黒天女の国とやらへ入り込んで、愈々(いよいよ)危いと見れば、深入りしない中に私を捨て逃げ返りましょう。それだけ私は気易いと思います。貴方がたは殺される時に成っても逃げ去らず、更に私を守護し、却って命を損する迄も抵抗なさる事は必定ですから、真に私の責めが重くなります。
 親身も及ばない程親切にして下さった貴方がたを、私の為に死なせては、たとえ私だけ無事に生き残っても、何時までも気が済みません。」

 この様に云う折しも、彼方の魔雲坐(マウンザ)の営地の方から、四方(あたり)に響く凄まじい鬨(とき)の声が起こったので、平洲は暫(しば)し耳を澄ませた後、
 「お聞きなさい。夫人、あの声は魔雲坐(マウンザ)王が黒天女の国へ攻め入る事を部下に伝えた為、部下の兵等が喜んで鯨波(ときのこえ)を揚げて居るのです。貴女も初めて聞く声では無いでしょう。

 吾々は貴女の仰せに従い、お分かれ申すとしても、魔雲坐王は中々ここでお分かれには致しません。貴女と共に敵国まで入り込みます。そうすれば貴女が折角敵の怒りに触れない様、単身で入り込んでも無益です。敵は貴女方に怒らないとしても魔雲坐王に怒ります。

 そればかりか魔雲坐王の今までの振る舞いも分かって居ましょう。彼が貴女に暴行を加え無いのは吾々が在る為です。吾々が去って、唯だ貴女のみと為れば、魔雲坐は第一に貴女を捕えます。貴女の身には敵よりも魔雲坐王が恐るべしです。
 是ほど明白な危険が有るのに、吾々が何して貴女の守護を止められましょう。」

 此の説明には夫人は初めて驚いた。如何にもここで平洲、茂林等に分かれたならば敵国へ入らぬ中に、魔雲坐王の暴行に遭うだろう。夫人は落ち着いた身にも何となく心配そうに戦(おのの)き始めたが、暫(しば)し考えて又鎮まり、

 「それでは魔雲坐よりも先に、ハイ今夜の中に私はここを抜け出し、敵国へ入り込みます。明朝になり魔雲坐が追い掛けても捕らわれません。私は成るべく間道を選びますから、ハイ唯だ此の上のお情けには、明朝魔雲坐が気が附いて怒った時、成るべく御両人で宥(なだ)めて頂きましょう。ここで魔雲坐にこの様にして分かれなければ、此の後決して彼れに分かれる時は有ません。

 たとえ彼の兵力を借り、敵国を攻め亡ぼす程の手柄を現しても、私の身は遂に彼の手の中から逃げる事が出来ません。ハイ私の心は固くこの様に決しました。此の後何の様な問題が有ろうとも、此の決心は変えませんから、何うぞ此の場限りお別れとして頂きましょう。」

 これ程まで云う者を、此の上何と説いたとしても、従わせる見込みは無い。平洲も漸く決した様子で、
 「では致し方が有りません。茂林君は何う致しますか。私だけはお言葉に従いここでお別れとして、直に本国へ帰りましょう。」
と云い出した。



次(第百二十五回)へ

a:220 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花