巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou131

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百三十一回 妻の所に行く 

 寺森医師と芽蘭(ゲラン)男爵とが、この様に忙しく問答する間にも、彼方にある軍神石の下に控える美人軍は、全く男爵の言う通り、男爵を逃がさないとの任務を帯びると見え、前面に居る男子軍の列を排除して外に立現れ、息を凝らして男爵の一挙一動を眺めつつ有り、男爵が若し一足でも制限の外に踏出したなら、直ちに飛んで来て捕えると瞬潑(まばたき)もせず張開いた彼等の眼は、輝いて天に列なる星にも似ていて、美しくして又物凄い。

 曾て麻列峨(マレツガ)国巖如郎王の話に、美人軍の眼には恐ろしい力が有る。その怒って敵を追って来た時は、燃える様な光を放ち、凄まじい事と言ったら、言う言葉も無いと言ったのは偽りでは無かった。而も彼等が男爵を狙って、一号令の許に飛び掛かろうと控えている身構えは、将に獲物を狩ろうとして身を潜める猛虎の様かとも疑われる。

 寺森医師は斜めにこのような様を見やって、男爵を救い出す道は全く絶えた事を知り、又男爵自ら逃れ去る見込みは猶更ら無い事を知ったが、静かに前後を考える事が出来る場合では無いので、男爵がその妻芽蘭夫人が、真に来て居て、彼方に居る事を未だ信じる事が出来ない様子であると見、更に言葉を急にして、

 「男爵、私の言う事は一句一句皆事実です。事実で無い事などを云う暇は無い場合です。」
 「エ皆事実、全く私の妻が向こうのアノ陣中に。」
と男爵は我を忘れて念を押し、余りの驚きに殆ど震え上がって見えた。

 「ハイ芽蘭夫人の今居る所は、ここから三百ヤードとは離れていません。夫人もここで貴方が私と問答などして居る事は知りませんが。」
 男爵は熱心の為め夢中と為り、自分が何事を云いつつ有るのかをも分からない程の早口で疊掛け、

 「何(どう)して妻がここへ来ました。何して旅行しましたか。何してパリを立ちましたか。何して、何して。」
と言って来た後は、情に迫って声さえも出ない。
 「何してと言って、我々の遠征隊は芽蘭夫人が自ら発起して、一行の頭と為って居るのです。」
 「エ、エ、私の妻が、自分で発起し。」
 「ハイ、先年可通無(カツーム)《ハルツーム》府に居るフランスの領事から、貴方が盆郷(ボンゴー)地方で死去したと云う間違った報告がフランスへ達し、政府は間違いと知る筈はなく、直ちにそれを広報しました。

 地学協会は申すに及ばず国人一同悲しんで、遥かに貴方を弔いましたが、芽蘭夫人は貴方が何所で死んだか見届け、親しく墓参しなければ、妻たる者の務めが済まないと云い、たとえ蛮人に殺されるとも構わないと云う決心で、遠征隊を作ったのです。

 そうして深くアフリカに入れば入るだけ、貴方の死んだ場所が無く、却(かえ)って生きて居る事迄分かった為め、墓参の目的は貴方を救い出す目的と変じ、遂に此の国まで入り込みました。」

と要を摘まんで説明(ときあか)すと、男爵は聞くに従い驚きは悲しみと為り、
 「妻にそれ程までの苦労を掛けたとは知りませず、」
と言い掛けて両の手に顔を当て、後は一語をも発する事が出来ず、身を悶えて男泣きに泣きつつ有るのは、時々その肩まで震わせる様子で察せられた。

 泣くべき場合では無いとは云え、真に泣かずには居られない程の事柄なので、寺森は何と慰めたら好いのか言葉もなかった。唯だ両の手を握り締めるだけだったが、やがて男爵は決然たる分別が起こった様に、身を引き延ばして寺森の手を握り、

 「もう殺されるのも致し方が有りません。妻は何所に、妻は何所に、私を妻の傍へお連れ下さい。何してここに居られましょう。」
と云いつつ強く寺森の手を引いて、彼れを引き擦(ず)る勢いで、此方の陣を目指して走って来ようとする。

 寺森は既に美人軍に厳重に見張れている様を見、到底男爵が逃れる事は出
来ない事を知って居るので、今度は却って彼れは、自ずから男爵を引き留め、
 「イヤ男爵、そう性急に仰っても到底ここは無事に逃れ去る事は出来ません。静かに考え、計略を以て逃れ出なければ。」
と足踏みしめて動くまいとする。

 男爵は場合の危うきをも忘れ、前後の思慮をも定まらず、
 「サア、サア」
と促し、叫びつつ寺森を引き立てると、病み惚(ほう)けた身にも、必死の時には、必死の力がある者と見え、寺森も殆ど抵抗する事が出来なかった。

 二足三足引き立てられると、真に飛鳥の勢いで、彼の美人軍、百人ほどが飛んで来て、寺森との周囲を輪の様に取り囲み、前にも後にも行く事が出来ない様にさせた。その早業は、唯だ驚く外はなかった。



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